どうして「体育」の授業ってあんなにも辛かったんだろう?
私は運動全般に苦手意識がある。
なぜなのか。そう考えてふと思い当たった。
それはきっと、「体育」という教科が苦手だったからだ。
あの頃私にとって「体育」は拷問だった
みんなで同じことをする中、ついて行けず自分だけが置いていかれてしまい、できていない様子を常に周りから見られている状態。
これがすごく嫌で仕方なかった記憶がある。
学校の授業自体は好きで、成績も殆ど5と4だったのだが、体育はいつも決まって3・・・
絶対評価であったからそれくらいで済んだとは思うのだけど、
私の親世代の相対評価であったら絶対1だったと思う。
それくらい、いつもクラスでビリかビリから2番目くらいの位置だった。
人のせいにしたいわけではないが、母もそうだったのでやはり先天性的な要素はあるんじゃないかと思う。母が体育が1だったことが理由で受験に失敗をした話をいつも耳にタコができるほど聞かされていたから。
「運動神経は母から遺伝する」
この説には一理あると思う。
体力も運動神経もそして体の柔軟性も、常に平均よりかなり下にいた。
体力テストや全体で取り組む競技等で常に他人と比較される。
その度落ち込み、さらに苦手意識が募る。
人並みにできなかった経験は自信を喪失させ、悪い意味で目立つことはいじめにも繋がり、授業に参加したくなくなり、やろうをしないからさらにできなくなる・・・
そのスパイラルを抜け出せないまま、私は大人になった。
そんな経験を重ねてきたので運動を好きになんてなれなかった。
トラウマは根強く残り続け、ダイエットや体質改善をしたくても「体を動かす」ことには消極的だった。積極的になんてとてもなれなかった。
幸いなことに大人になると集団で運動する機会もなくなり、すごく気持ちが楽になった。
それでも、ジムやホットヨガ、フットサルといった他人の目がある場に参加するのは常にストレスだった。
天然を装ったり、持ち前の明るさで誤魔化したりしていたのだが、やっぱり笑われると嫌な記憶がよぎる。
他人に自分の「運動」を見せれば笑われるか呆れられるか、そんな経験しかしたことがなかったから。
だから最近になって、自宅で筋トレを楽しむようになって気づいたのだ。
私が苦手だったのは運動ではなくて、他人の視線だったことに。
他人と比較されていたら辛くて当然
今、私は週2で全身の筋トレメニューを30分間こなしています。
YouTubeに上げられている動画に沿って、1人で、家で。
以前の私からしたらすごい進歩!
最初は30分がすごく長く感じられたし、苦しくも思ったけれど、ノれる音楽に合わせて明るく励まされながら行うトレーニングは楽しくて、最初こそ強めの筋肉痛を経験したがそれが治ってからの2度目以降はそれも軽くなった。
自分のペースでできる「運動」はすごく楽しかった。
筋力がなくてそれができなくても全然恥ずかしくないし、自分のペースで人目を気にせず挑戦できるから自分の改善点と、落ち着いて向き合える。調子が悪ければ別の日にするし、良い時は追加で行う。しかも、継続すれば少しずつではあるが、体の変化がしっかり現れてくる。
「筋肉は裏切らない」。なるほど、と思った。笑
誰しも「できないこと」をできる人と比較されたら嫌になってそりゃ当たり前だって今なら思える・・・
10代の頃からこれが知れていればあんなに自己嫌悪やトラウマに苛まれなくても済んだのにな、とも思う。
成長期だからこそできたこともあっただろうし、20代とはいえ30手前で筋肉や運動神経を強化するよりは絶対効率的だったはず。
苦手なことは誰しもあって当たり前なのに、全員にそれを求めたり、順位をつけるだけでその後のフォローは特になし。
今思えば、体力測定テストも実施するのなら、下位の子達にどうすれば改善できるのかを授業内で教えてくれても良かったのに。
むしろそれこそ教育として何よりも重要なことなのでは??
本来の「体育」に求められていることとは何か、と考えてみる。
運動神経に大きく繋がる筋トレやストレッチは、日々の積み重ねや習慣、環境や遺伝による。
それによって個人個人の差は年齢を経るとともに大きく開く。
運動が得意な子とそうではない子、
すべきことは異なって当然なのに、授業では結果だけ伝えて具体的な改善案は教えてくれない。
全員が同じことを、同じ頻度で、他人の目に晒されながら行う。
それが私が経験した「体育」という教科だった。
確かに先生によってとかで違うのかも知れない。でも多くの公立学校ではそうではないのだろうか?
比較だけはして「あとは個々で勝手に努力して実力上げてね」というスタンスでは、なんのための授業なんだろう?
それだと得意な人と苦手な人が二分化されて当然だと思う。
運動は、家庭環境や遺伝の要素も大きいし、そういった「体育」のせいで苦手な人はむしろもっと苦手になり、自然と運動を避けるようになってしまう。
早朝や夜に外出が許されていなかったうちの実家ではランニングも個人ではできなかったし、自分の部屋もプライバシーもなかったのでストレッチも堂々と出来なかった。
今みたいにネットやYouTubeも盛んではなかったので、部活や何かスクールに所属していない限り、自分のどこが悪くてどんなことをやればいいのか、知ることなんてできなかった。
本来、「体育」でされるべきは、「体を育む」ための指導のはずだ。
運動ができない子にこそフォローを手厚くするのが本来の「体育」では、?
当時は筋力やストレッチの大切さも全くわかっていなかったけれど、大人になって、身体年齢を意識するたびにその致命的とも言える欠陥の重大さがよくわかる。
植え付けられた苦手意識を越えたい
ちなみに私は体育は苦手だったが、運動会は好きだった。
それは放送委員として活躍ができたから。笑
クラスが皆所定の場所で応援している中、役割のために抜け出して、ほとんど実況席にいた。
それぞれ得意、不得意がある。
そして、肝心なのは大人になってからだと思うから(部活やめていきなり太ったり、30代になって太り始めてしまう大人がいるように)、
私は今からでも遅くないと信じて、習慣化を謀っている。
ずっと私は体が固いと思っていたのだがそれも誤解だった。
それはストレッチやトレーニングをしていくうちに、「長座ができなかった」のをそう思い込んでいたことに気づいたから。
上半身の柔らかさは正常な範囲内だし、長座のできない理由もハムストリングスの緊張もあるけれど、どちらかというと腹筋と背筋が足りていないことが大きいことがわかってきたのだ。
20年以上誤解していたことが明らかになりました。
いくらお風呂上がりにストレッチ(長座体前屈)をしても改善されない理由がわかって納得。笑
『1Q84』の青豆が「肉体こそが人間にとっての神殿」と表現をしていたけれど、
その意味が今はわかる気がする。
心身は切り離せないもので、互いに多大な影響を及ぼし合っている。
学校では教えてくれなかったこと、
これも一つの教育の洗脳なのかもしれない。
洗脳は望めば自分で解くことができる
実際に、筋トレやストレッチを定期的にしないと落ち着かなくなっている私がここにいます。
得意不得意はあっていいけど、それを本人が克服したいと思った時に挑戦できる環境を整えることはすごく大切。
そしてそれは大人であれば自分でできるけど、子どもたちには周りにいる大人たちだけが用意することができる。
こんなことを漠然と思いながら、毎日自分の体と向き合っている今日この頃です。
今回も読んでくださりありがとうございました。