親しさの快楽の回路
これまでいろんな人と関わってきたはずだけど、俺が人と過ごしてて感じる快楽ってほぼ一通りに収斂してたんじゃないかって気がする、とふと思ってメモする。
たぶん俺は言葉の人間で、言葉で人と通じたい。けど、そこでいう通じ合いっていうのは、別に論理的で生産的な議論から生まれる相互理解とかじゃない。お前が喋ってる言葉が俺の口から出てもぜんぜんおかしくないな、逆もまたしかりだなと思えるときに、俺は生きてるって感じる。二人の言葉がつながり、いままさにこの場で作られているならば、会話の快はここにある。本当にこの世にとってなんの意味もない言葉でいい(だから、俺は気持ちよかった会話のことをもうほとんど覚えていない)。自分の論理や言葉をより無駄なやり方で使うことにこそ、強い快楽を感じると言ってもいいのかもしれない。
でも、人はそれぞれ違う性格をしているから、相性的にそういう関係を築くことのできる人とできない人がいて、できなかった人とは結局疎遠になってきたのが俺の人生で、でもそんなの寂しいじゃないかと思う。嫌いな人や肌の合わない人に使う時間はもちろん無いから、ぜんぜん疎遠で構わない。けど、好きだけどそういう関係になれない人だっている。この人と良い関係になりたいのに、この人といることの快を最大化したいのに、俺の理想じゃそれを果たせない人がいる。悲しい。
最近、俺が一通りの快楽しか親しさの快楽として認めてないから、こういう悲しさが生まれると気づいた。別に面白い話ができなくても、俺たちは仲が良いと思ってもいいのかもしれない。風になびく草をただ眺めたり、黙って手を握り合ったりするだけでも、俺たちは仲良しでいたい。すれ違ってしまう言葉に寂しさを感じて離れるよりも、そこに言葉の通い合いが無くても相手と自分が尊重される道を探したい。
ʕ⁎̯͡⁎ʔ༄にゅーんʕ⁎̯͡⁎ʔ༄