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長新太について読んでみる➂ 絵本作家文庫 長新太 今江祥智編 すばる書房 1977年
長新太さんのインタビューや対談、特集記事など、長新太さんについて書かれたものを少しずつ読んでいます。
第3回目は、絵本作家文庫『長新太』(すばる書房・1977年)です。
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目次
長新太の一枚漫画 井上洋介
ネコふんじゃったネコかいちゃった
長新太の絵本の絵 堀内誠一
〈インタビュー〉長新太氏にきく
長新太さんの絵 灰谷健次郎
男のハナ道 永田力
ビー玉人体内臓説 長新太
編集後記■長新太無儘蔵説 今江祥智
長新太■作品リスト
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長新太と児童画の結びつきは、子供の本能的な五感とより強く感応し合おうとするところがあると思われる。
「ベタベタブンブンおおさわぎ」「いそっぷのおはなし」には既製の美術的な童画という概念への蔑視、激しい反逆がある。
このあと「なんだったかな」など、やや奔放さをおさえ、引きしまったスタイルになり、シンプルな強さを目差すが、画家としての冒険が感じられないものはないように思う。
極く最近もですが、長新太さんは、くどい位にくり返し“写実的にキレイに細かく描いた絵しか、皆いいって言わないけど、簡単にサッと描くのも大変なのよネ”といったようなことを、特に酒が入ると言います。また批評する人は絵のこと勉強してほしい―といい続けている。少々楽天的な私からすれば、これほど賛美者にかこまれ、評価も受けながら、何でそれほど侮蔑しているものの存在を心配するのかと思うのですが、おそらく自分の味方は
子供たちしかいない―強い味方なんだけれど、教育産業というものの持つ暴力の前には弱者である子供たちに結びつくことに賭けているからなのでしょう。
長新太の絵本の絵 堀内誠一
「どうぶつあれあれえほん」や「ぼくのくれよん」など、文も画家が書
く、いわゆる絵本作家的仕事が多くなるが、これほど大人が子供の側におり
立ったことは極めてまれであろうと思われるような、子供の世界、本能に肉
迫したものが生れる。せいいっぱい大人になろうとしている子供の外皮でな
く、子供自身も常に意識的ではない、潜在的な官能にまで深く入っていくよ
うなものがある。
いま手元に資料がないが、月刊「絵本」で特集があったとき、安氏の長新太批判論が載っていて、非常に面白かった。(安氏の信念は立派で対極的な正論だろう)長新太の絵本は知恵おくれの子供がことのほか熱愛するといっ
たような観察が報告されていた。
これが事実として、私は素晴らしいことだと思うのです。
「もじゃもじゃしたものなーに」や「ごろごろにゃーん」の絵のもってい
る、真に素晴らしいものは、児童文学ではおそらくスキンシップできない、
幼児の官能の世界にまで、大人の愛が、いたわりが到達したということでは
ないかと。
先に、私は長新太さんの絵の造型的な追及について注目したが、もっと根
元的な“視覚のよろこび”が造型主義の終焉の果てに存在を顕わしてくるもののように思えてならない。
幼児にとっては、視覚のよろこびは、ほかの感覚と直接むすびついているものであり、唇を動かし、指先を行動させる。母親の肌を指でまさぐった
り、指をしゃぶることは、絵を描いていることと殆ど同じ喜びではなかろう
か。
長新太の絵本の絵 堀内誠一
今江祥智さんの家で、たくさんの長さんの絵を見せてもらったとき、ぼく
がさいしょに思ったことは、この画家に死んでもらってはこまるなということでした。
教師を止め、子どもたちと別れたさびしさが、長新太さんの絵に出合って満たされていくのを感じたぼくは、本能的にそれを思ったのでした。
この文を書く前に、月刊「絵本」の長新太特集をもう一度読みかえしてみ
ました。安和子さんが、長さんの絵は子どもへの追従だと書いてありまし
た。幼児の稚拙さへのへつらいだとも書いてありました。
世の中には、いろいろな感じ方をする人がいるもんだなと思います。
十五年ものながいあいだ、子どもの絵とともに過ごしたぼくは、数枚の長
さんの絵を見ただけで、ある種の飢えが満たされたのです。
(「児童文学一九七六」聖母女学院短期大学児童教育学科発行)
長新太さんの絵 灰谷健次郎
堀内誠一さん、灰谷健次郎さんは、長さんの絵が、子どもたちの、大人たちの中にある子どもの、本能や潜在的な部分に達していると書かれています。
なんだか心の(魂の)奥の方をこちょこちょとくすぐられているような、笑えるんだけど、同時に涙がぽろぽろとこぼれてくる不思議な感覚。長さんの作品は、子どもたちを、大人たちの中の子どもを、ずっと、あやしてくれているように感じるのです。
※引用文中、差別的と受け止められる表現がございますが、原文通り掲載しております。