「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」を二児の母が読んで
「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」若林正恭さん著
若林正恭のエッセイを追いかけてきた。
「自意識過剰でプライドが高く、協調性もない。少数派のくせに一人で立つ勇気を持たず、出る杭のくせに打たれ弱くて、口が悪いのにナイーブで、それなのに多数派に賛同できない」
それは私だった。
いつも、いつも、心の奥にしまいこんできた私がそこにはいた。
私は二児の母である。
どうか子供達が私に似ませんようにと祈っていた。お腹にいる時から祈っていた。
こんな生きにくい私に似たら、子供達が苦しむ。
そして、子供達に私の生きにくさがばれないようにと願っていた。
若林が、本書の中で、自分の内面を覗き込むことを「ボンネットを開ける」と表現していた。
母親になったとたん、私は素晴らしい車両として順調に停止することなく誰が見ても安全運転で走らねばならない。ましてや、このボンネットを開けることがあってはならないと呪いをかけた。
でも、
私という車は、母親になって恐ろしいほどに故障し、停止した。
「何がいけないんだろう」と、ボンネットを開けては悩み、隣を楽しそうに走っていくキラキラした車に舌打ちした。
SNSを開けば、そこに答えっぽいものはあった。
でも、私はこれをしなきゃいけいのかと思うと、喉の奥がぐっとつまる。
違う。どこかに私と同じ人がいるはずだと思って、私は外に向けて動き続けていた。
でも、私と同じ人が見つからない。だから、私はまたボンネットの中身をチェックする。
「何がいけないんだろ」
そして、もう疲れた。チェックしつくした、やりつくしたなというところまできて、やっと気づいたのだ。
何度見ても、何があっても私という車両の構造は変わらないのだ。
ただしその性能を理解した。
それでわかったことがある。
若林の言葉を借りたいと思う。
「これからも生きづらいのだ。そして、そのおかげでこれからもたくさんの価値に出会うだろうという懸念と感謝が同時に生まれた。」
私は外の世界を走る車に舌打ちすることはなくなった。私の横を通るキラキラ車両もまた、欠陥車両であると理解したのだ。
そして、私というポンコツ車両が故に、立ちどまるからこそ見える世界もまた美しいということにも気付いた。
立ち止まるから、目の前の世界が、目の前の人が、目の前の事象が、見えてくる。
脳内で、大喜利「写真で一枚」が繰り広げられている私の世界は、なかなかに愉快だ。
そして、今、私のボンネットの中身を、子供に堂々と見せるようになった。
見せた上で走ると不思議と故障することは少なくなった。
そんなポンコツ車両を楽しんでくれて、修理してくれるのも子供だったりするのだ。
笑いながら、遊びながら。
これからも、私は生きづらさと、だから見える美しく楽しい世界の中で生きていく。