宗教心
歩くと
投げ捨てられた
空き缶、タバコなどが
視界に入る。
以前はとても気になって
いたのですが、
腹立たしく思うことが
なくなりました。
怒りって
結構なエネルギーを
消耗するようです。
ポイ捨て、不法投棄、
これはする人のモラルの問題。根付いた習慣。
そう変わるものではない。
陰で捨てる人は絶えない。
他人に腹をたてても、
どうしようもないことです。
こういった考えは、
観音経を唱えるようになってから、
身についてきたように思います。
まだ約4ヶ月程度ですが、
観音経、読経は何か日常に
変化をもたらしてくれる
のかもしれません。
変化というよりは、自身の考え方、
とらえ方でしょうか。
私が住んでいる地域では、
年に一度の市内清掃デーが
初夏にあります。
その日だけの専用のゴミ袋を作成し、
協賛企業多数が多いイベントです。
相当の費用が
かかっているはずですが、
不法投棄がなければ、
全く不要の費用、行事。
以前は強制的に参加させらる
クリーン行事には、
うんざりしていました。
でも、ゴミ捨てるバカがいるから、
バカなイベントがある。
市も何も考えず、
改善する気がない大バカ、
私もうっかり忘れや不器用なことが
多い大バカです。
皆なにかしらの欠点がある、って
思えば、気が楽になりそうですね。
つまらないと思うより、
どうせやるなら、少しでも
楽しんだ方がいいですね。
怒って掃除するなんて、
きっと不健康です。
要は不法投棄が絶えない。
だからこそ年に一度くらいは
掃除する日を設ける。
考えてみれば、
理にはかなっています。
また一年後にはゴミはたまる。
繰り返しがいつまでも続く。
モラルが変わらないと、
どうしようもない。
ただ、個人的に思うのは、
マイナスな現状(気分を害してしまいそうなこと)を見た場合、
自然か生き物に触れると
意外にも気分は
すぐに良くなります。 だからこそ、
毎日自然に触れるのかもしれません。
自然が心身を浄化する、
きっとあると思います。
以前に日本最古の神社に
行った時、
あまりにもきれいな町に
驚きました。
駅から歩いて神社まで
向かう約30分間、
途中の商店街、
道路、何一つゴミを見かけない。
宗教都市とでも言えるところなので、
おそらく、掃除の大切さを説いているのでは、と思います。
ゴミが落ちていない、
探しても見つからなかった。
ゴミがないのに、
朝の商店街の通路を竹ぼうきで
はいている。
神社の駐車場で空き缶を
見かけましたが、おそらく県外の人。
何か大事にする気持ち、
宗教心でもあれば、
きっと不法投棄は
しない。
おそらく農薬も使わないか、
少なくするはず。
信念のようなものって
やっぱりあったほうが
良さそうです。
クリーンデー、なんておそらくない。
モラル一つで、
街もきれいになるなら、その気持ちを
持てる地域は憧れます。
宗教で他人を無理に巻き込んだり、
金銭が絡めば問題ですが、
先の都市のように、
きれいな街を見ると、
うらやましく思う。
以前京都に住んでいた時、
世界救世教の売店や支店で
野菜を買っていました。
信者でなくても気軽に
買えるので助かりました。
意外に安かったこともありますが、
何よりも、野菜がとても
いい感じでした。
MOA(エムオーエー)自然農法で
作られ、歴史も古い。
調味料関係も
いいものでした。
偶然にも、波動測定値の本を
読んでいた時、
その関連の会社が
つくっていた醤油がでていました。
オーガニックも含め、
複数の醤油の波動を測ったところ、
その会社の醤油が異常に高い
波動数値を出していました。
著者の話では、理由がわからないとなっていましたが、
その波動測定器具、って
本当なんだな、って思いました。
その醤油の醸造所のパンフレットを
みてみると、
いかにも人の良さそうな人の
写真がある。
グループの生産者の大豆を使い、
伝統的な製法で作っていることが紹介されていました。
宗教心を持った人たちが
関わってできたからこそ、
異常に高い波動数値が出た
のだと思います。
野菜って意外に作る人によって
味がかわります。
いくら自然農法、無農薬、といっても、
ちょっと性格が陰気であったり、
あり得ないくらい高額なお米、
何かしらいやらしさを感じさせる人が
関わったものは、不思議と
違和感があります。
わたしは自然農法なら、
農薬も肥料も使わないから、
野菜が高額になるのがおかしく感じる。
少なくとも、相場があってその範囲内で
ないと、ある域から、どうもいやらしさを感じてしまう。
そう考えることがおかしい、って言われるかもしれません。
でも結局は、自家栽培に向かうのが
最強だと思っています。
選んで買うから、作って見る、ですね。
料理人で野菜を厳しく選ぶ人よりも、
おばぁちゃんが作るような野菜に
ひかれる。
家庭菜園程度のお裾分けが
結構美味しく思うのも、きっとその
人柄が関係している。
コーヒーですら、同じ豆、
水であっても
入れる人で味が違う。
ある紅茶専門店でたのんだコーヒーが
UCCの豆だったのに、
自家焙煎 スペシャリティ
コーヒー専門店を
圧倒する美味しさだった
こともありました。
科学では証明できない、
関わる人で味が変わる、って
きっとあります。
その味の元となるもの、って
気持ちや宗教心、
何か大事にする優しい気持ち
だと思います。
おにぎりなんて、まともに味が
でますね。
今じゃ少ないのかもしれないけど、
素手で握ってくれたおにぎりの味って
いつまでも印象に残る。
手の常在菌って、
もしかしたら単なる菌ではなく、
人の何かがこもったものに
思えてきます。
野菜、コーヒー、
おにぎり、
作る人でずいぶんと変わるって
きっとわかる人にはわかると思います。
じゃ宗教心のような、
何か純真で、優しい気持ちを持つには
どうすればいいか。
おそらく、
生き物に触れるってことが
一つの答えに思えます。
自然の生きものや植物をみると、
一旦、どんな気持ちも少しは
落ち着かせてくれる。
私には訳あって、家に猫がいます。
掃除や世話等で
結構な時間を取られます。
それでも、意識があり、
性格もそれぞれ違う。
触ったら暖かいし、
嫌なことがあっても
不思議と気にならなくなる。
トイレ掃除などで
イライラしても
おかしくないのですが、
そうならない。
健康で長く生きてほしいし、
大事に思うようになる。
生きてるから、なおさら大事に
したくなるものです。
折れた野草を花瓶に入れて
毎日水換えもしていますが、
これも生きているから
するわけです。
仮に掃除もしなくていい存在、
ロボットの猫や
造花だったら、
空しい感じがすると思う。
何気ない毎日の水換える行為、
毎日の読経、
猫掃除などの作業すること自体が、
宗教心のようなものを育むのかも。
心の筋トレになっているかも
しれません。
植物も含めて
命あるものに触れる。
だから、家で花を飾るって
とてもいいと思います。
農作業も手作業か、少なくとも
土に触れると良いですね。太陽の光も。
寒くても、極力毎日土に触れる。
素手で触れると、
寒い季節もよく感じる。
土の中に
大量の微生物がいます。
微生物も生き物です。
確信は持てないけど、
畑作業をしている人が、
ビール缶やゴミを投げ捨てることは
しないと思う。
何かしら普段の日常が良ければ、
宗教心、道徳は徐々に
身についていくかもしれません。
それでも、つい気持ちが
乱れることはある。
地味な猫トイレ掃除、
神棚の水変え、花瓶の水換え、
要は家事雑務は、毎日ある。
決して無駄な作業ではない。
いやいややるのは、まだ甘い。
進んで何も考えずにできたら、
いいけど、毎日そうはいっていない。
だから毎日鍛えるわけですね。
使わないと減るのは筋肉。
使えば増えていく筋肉。
となると、楽のしすぎ、
便利すぎることが
くせものです。
料理なら、手料理に勝るものはない。
頭も手足も使う。
面倒だと思わず、
楽しくできるように
したいところです。
となると、
じゃまくさい、って
思わない境地になれるのが
ベストですね。
なにか作ることで、
世界が広がりそうです。
無関心/素通りすることもないから、
結局、頭も働くのかもしれません。
便利すぎる、
無関心の積み重ねで
宗教心が育たない。
ずっと前にフランスのカトリックの
家に泊めてもらったことがあります。
夕食後は毎晩、家族で聖書を読み、
話し合う。
毎日していると言っていましたが、
その姿はとてもきれいに感じました。
毎日だから、もう当たり前の
習慣のようなもの。
今思えば、テレビも
ネットもしていなかった。
頭、手足を使うなら、
どんな些細なことでも
体と心には良い気がします。