愛という宗教
近現代以前の西欧小説を読むと、たいていキリスト教的な教訓が入っていることが多い。救われるのはキリスト教的な奇跡によるもので、そうじゃなかったとしても「(男女や家族の)愛が救う」なんて物語じゃなかった(シェイクスピアは近代の人だ)。
近現代以前の日本の小説(もしくは能楽といった芸術)だって、儒教的な忠孝か、仏教的な慈悲によるものがほとんどで、男女や家族の愛は、煩悩の1種である愛別離苦でしかない(源氏物語は愛を賛美していない)。
最近の映画や音楽を聞いていると「愛は世界を救う」みたいな話が多い。
愛さえあれば、どこでだって、どんな状況だって生きていける。
君さえいれば何もいらない。
君が誰かの恋人だろうが、愛のためなら奪って構わない。
家族は素晴らしいもので、愛し合っていて、いつも助け合って生きていけるものだ。
こんな感じ。
でも現実はそうじゃない。
日本における殺人のほとんどは顔見知りで、いちばん多いのは家族間や痴情のもつれ。
虐待を行う加害者のナンバーワンは実の両親(義理の親ではない)。
両親の片方が浮気や不倫をすれば、(全部とは言わないが)ほとんどの子供は何かしらのトラウマを持つ。
仕事柄、人の相続の処理をすることは多いが、家族間のトラブルほど泥沼化するものはない。
恋人たちは、愛さえあれば、なんて言う人はほとんどいなくて、「かわいいor美人か」「家事ができるか」「育ちはいいか」「良家か」「年収はいくらか」「背の高さは高いか」「健康か」そんな条件で人を値踏みする。
そして、値踏みしない人間が幸せになるかというとそうじゃない。配偶者のdvや借金、ギャンブル癖で一緒になって身の破滅を招いた人を私は見てきた。
そして何より自分自身が、「愛」というものに馴染みがない。
「子供は親を選べません。愛という言葉は神と同じくらい存在があやふやなものですが」ゴールデンカムイ・尾形上等兵
愛もまた宗教だ。
それによって救われた人も、きっといるに違いない。
でも、そうじゃない人間は、まるで昔の異端者や異教徒扱いだ。
家族を大事にできない人間や、恋人を作れない人間は、どこか劣った人間のように扱われる。たとえその人の親がいわゆる「毒親」だったとしても、「でも親なんだから、あなたのことを愛してのことだったのよ」と言われてしまう。
無条件に愛を賛美する芸術は罪だと思う。