
へびの毒、みたいな話
2025年、へび年ですね。にょろり。
柴田ののかです☺︎
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
あ、年女ではないです。
でも毎年干支ものは確認しています。
なんかその一年の土台をつくれるような気がしているので。
というわけで、新年note初め”へび”の話を。

へび
そうじゃないやつもいるんですけど、
自分の中では「へび」ときいて真っ先に思い浮かぶのは「毒へび」なんですよね
へびの歯には毒がついているから咬まれたらあぶないぞ、って
だから自分にとって「へび」に対する”あぶないやつ”のイメージが強い
でも無毒のへびもいるのでへび全てがあぶないやつかと言われればそうではないし、畑作の天敵を食べてくれるので本当は恩恵を受けているところもあるんです
でもどれもこれも人間目線でのへびの話なので、
視点を一旦へび側に移してみましょうか。
〜にょろりん〜
そもそも毒へびたちはなんで毒を持っているのかというと、
「狩りを行うため」なんですね。
無毒のへびは全身を使って敵を締め付けるという攻撃でもって狩りをしますが、
毒のあるへびは一咬みして獲物に毒を送って食料を手に入れる。
手も足もないへびが、反撃を喰らわずに狩りを行うために、
「食を獲るために」毒を持っているんです。
そしてこの毒の正体は「消化を良くするための消化液」でして、
へびの毒って本蛇(本人)にとってはただ唾液とか胃液とかの類なんですよね。
あのフォルムのへびが、獲物を食べたらその分の重さが加わって動きづらくなるので今度は自分が狩られないよう早く消化して早く動きやすい状態になるために、「早く栄養を得るために」食べた後のことも考えられた毒を持っているんです。
すごくシンプルに「生きるため」なんて理由を出されたら(そりゃ、すベてそうだろう…)と自分は思ってしまうのですが、
「食べるため」かつ「食べられないため」を兼ね合わせた「生きるため」のものがへびの毒だと思うとなんかスッと腑に落ちていくんですよね
さて、元の人間の視点に戻りましょうか
〜にょろりろりん〜
すごいですよね。
なんか思っていたより禍々しくない、へびの毒。
毒なんだけど消化液っていう正体を知ると怖い・怖くないとかの感覚を払拭できてシンプルな事実だけを抽出することができる
なんでこんなことを知っているのかというと、子どもの頃に
〈なんでへびは毒を持っているのに、自分の毒で死なないのか?〉みたいな疑問を持ったから調べたんですよね。
(へびさん、あなたの毒って諸刃の剣ではないのですか…?)みたいなね
へびの毒に対して恐怖よりも心配が勝ちました、子どもの頃は
だからへびの毒ってほんとは毒じゃないんですよ
人間にとって毒なだけで、へびにとっては消化液なんですよ
他者にとって毒だと感じられるものであっても、
当人にとってはごくフツーな自分の一部なんですよ
逆を返せば、
当人にとってはごくフツーな自分の一部であっても、
他者のなにかしらを通したら毒だと感じられてしまうものもあるんですよね
所変われば品変わる、みたいな話なのかなーって、なんとなく思ったんです

(来年は巳年やなぁ…)と思った年の瀬にこのへびの毒の話を思い出して、流れで(自分にとってはごくフツーのものが誰かには毒だと思われてしまったなぁ…)、みたいなものを思い出したんです。
でもへびと自分が決定的に違うのは、自分はその認識の違いで自身が蝕まれる感覚を抱いてしまうことが多々あるということで
(巳年やし、来年はどんな年にしようかなぁ…)って思った年の瀬に、
「自分の中にある毒と思われた消化液を、フツーの消火液へと、認識を戻していきたいな」と思いました。
自分の消火液ぐらいは誰になんといわれても毒ではなく消火液って思い続けられる頭でいよう
自分の価値観や構成要素ぐらいは誰になんといわれても自分の価値観・構成要素としてそういうスタンスを貫けるようになろう
そんなことをふと思ったんですよね。
まあ要はへびみたいになりたい、みたいな話なんですけど
なんかどれもこれもわかりづらい話なので、
一旦話をへびのように咬み砕いてみましょうか。
〜にょろりん〜
わたしには自分の中に”表に出してはいけないのではないか、と思っているもの”が結構あって
ぱっと思いつくことだと
たまに出る一人称の「ぼく」・二人称の「きみ」とか、少年っぽい嗜好振舞とか、
ちょっと個性的なものを身につけたくなる服・帽子のセンスとか、
最速最短で出す言葉の少しの砕け・鋭さとか、伝わりにくい方言とか、
過去に人に指摘されただとか、なんとなく空気を読んでとか、理由は様々ですが、自分を律して表に出さないようにしたり、出してもすぐに撤回しようとしたりするものが結構あるんです。消化液が毒だと認識されていった、みたいな話です。
でも嘘をつけない性格だし、元々思っていることが顔に出やすい人ではあるから、ある時から表に出す出さない以前にそもそも”抱いちゃいけない、みたいなモノ”に変化していったんですね。根本的にそれを持ってるから、出す出さないの話になるのであって、根本から無くしたら万事解決なのではないかなと(そんなわけない)
毒と認識された消化液が自分を蝕むものに変わっていった、みたいな話です。
へびは他者に毒だといわれようがその毒(消化液)が自分を蝕むことはないのに、
自分は他者に毒だといわれてしまうと消化液を毒に変えて自分を蝕むのですね。
だからへびみたいになりたい、みたいな話を思いついたんです。
「自分であるため」かつ「自分を失わないため」を兼ね合わせた「生きるため」のものをスッと腹落ちさせたいなと思ったんですよね。
さて、元に戻りましょうか
〜にょろりろりん〜
結構自分を律してきたり矯正してきたりした時間が長らくあると、締め付けられる攻撃を受け生きづらさや息苦しさを感じることって誰しもあるような気がします。
自分らしさってなんだろうって思ったら、大概過去自分が押し殺してきたものの中から見つかるようなような気がしています。
だから自分の価値観・構成要素はほかでもない自分のものなんだという気持ちと、
「あなたにとっての毒は、わたしにとって消化液なのよ」という自己理解と、
「わたしにとっての毒は、あなたにとって消化液なのね」という他者理解を持って
生きていきたいなと思った次第であります。
勘違いというほどでもないけど、自分の気持ちや感覚・知識の正体を知ることで、なにか締め付けられる感覚を払拭できてシンプルな事実だけを抽出すること。
なかなか大事な時間だと思った次第であります。
おそらく時間がかかることではあるのですが、
そこはゆっくりじっくり消化していきましょうかね。

だって、まだ新年始まったばかりですもん。
まだまだこれからですよ〜にょろ〜☺︎
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