鳴らない電話、鳴り続けるサイレン
世の中には
「自分は、人の気持ちが(痛いほど)わかる」
と思い込んでいるだけの人が多い。
認知の歪みが過度な共感を生み、その結果自分が苦しむ。
相手の気持ちは本来その人にしか分からないのに、自分の認識のズレを客観視できず、行き過ぎた共感に陥ってしまう。
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大人になるという事の中。
感情が無くなっていく、という感覚が僕にはあります。
今はもう過去形かも知れませんが。
それを悲しく思い、辛くて辛くして仕方がない現実に行き詰まり。
発狂して死にたくなるまでの怒り、苛立ち。
行き場のない絶望、があったと振り返ります。
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大人になると感情が薄くなってくる、という人がいます。
けれど、それは「慣れ」です。
同じものを経験しても、初めての体験、と、二度目以降の体験では、感動は違います。
そして、感想や解釈も広く深くなります。僕はそう思います。
そこで感動も感情も、感想も解釈も。そういう事が無い、失っていくと言う人はそれまでの人。そういう人間というだけなのです。
人には悲しいけれど現実問題、向き不向きがあるのです。
どれだけ好きでも、生きていく為には好きではない事をしなければいけないのが現実なのです。その中で好みというのがあるのだと自然と僕は着地しました。
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僕はこの二年間で、自分の楽器を売ったり質に入れました。
もう僕に楽器はありません。
けれど、音楽を辞めたとか、楽器を捨てたとは死んでも口が裂けても僕は言いません。
ただ、生きていく為に、幸せになる為に、一時的に音楽や大切な者を手放したと言うだけの話です。
不幸な事に不幸では無かったどころか、自分の現実、理想と現実、幸せとは、何か身の丈に合わない者にまで手を伸ばしいているのではないだろうか。それを考えるのも人間だと思うのです。
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僕に、あの時、それ以外の選択肢があったのだろうか。
僕だけに焦点を当てる。
あの時は、じゃあ、この今年。
あと、この二年、三年間。
僕は今年の5月。
愛着障害から来る精神不安から発狂の瀬戸際から怒号を上げた。
過去の日記にも書いてある。
僕がしたことは問題行動だけれど、原因まで僕のせいにされるのは、とても悲しい以上に、深く、辛く傷ついた。
けれど、その背景や話は僕の問題だ。
どうしての部分は、僕の人間としての話。
一言で済む話ではないけれど、僕にはその時、その選択肢しかなかった。
そこを分岐点だと言われる事、僕は悲しいより、深く傷ついた。
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そこから色々な経験や話を見聞きして、考え続けた結果、今は違う。
僕は別の選択肢や視野を持つことが出来た。
これは我慢の連続、苦行の繰り返した。
でもいつかこれで僕も変われる。
慣れていけば、どんな苦労も、困難も壁も逆風も、慣れていけば少しづつでも強くなれる。
そんな立派な事でもないし、大層な事では無いのかもしれないけど。
僕にとっては僕の生きていく人生においては大事なこと。
感情に飲み込まれない。感情を飲み込ませない。
振り回されないのではなく、一度、二度、三度と息を飲み込む。
一呼吸おいて。
「そういう人も、考えも、そういう見方もあるか」
「そういう事ってある? いや、まあ、そういう事もあるかもな」
そして、
「さて、どうする」「さて、どうしよう」
そう考えていくようにする。
「ふざけんな!」
「お前もか…」
そう怒り狂う、不安や絶望に襲われて、完全に我を見失う前に。
あっ、そう。
勝手にしなー。
適当にやれよー。
好きにやればいいさ。
応援する、力になれるならなる。
それか、どうせ、裏切るんだし。
と、風のように前に突き進めるようになりたい。
鉄風、鋭くして。
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明後日からの仕事の現場のスタッフが、確保できたのは二日前。
給料をどうしてもという理由で、先払いで渡しているスタッフが、言い訳を並べて、こちらの日程の日に仕事をしたがらない。
来ないと言うより、他の用事があるから予定が…と曖昧に誤魔化す。
今回の仕事現場に来れないなら「先払いでお金をくれませんか」と相談して来るなと思う。
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こういう話が重なっている。
だから、この日記で怒る人は、あなただけが、僕に対して僕との間で何かある訳ではない事は僕が死ぬまで忘れないで。
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僕が相手に間違った尽くし方や接し方をしていたことは反省している。
なんで、そういうカッコ悪い事をして、堂々と自分は悪くない、悪いのは自分以外、と強くいられるのだろう。
僕は毎日、自分が悪いのか、何でそこまで言われる事なのか、悩む。
僕も他のところで、不義理や間違いをしてる。
絶対にしていると堂々と誇れる事ではないけれど、僕も色々な所で迷惑をかけ、怒られ、嫌われたりもしている。
僕が悪い事や間違いをしたところでは、僕が謝り、責任を取る。
何か問題があると、相手に対して怒り、不信感や疑心暗鬼になる。
それが相手が知らない所、で他人は怒りをふつふつと煮えたぎる。
その人への苛立ちは悪評になる。怒りの末は呆れて見捨てられる。
そうして人は信頼を失い仕事や私生活も平行線か下降線をたどる。
大人になっていく過程で大事なことは、他人と信頼関係を築くため、信頼される人間として他者と共存できる自分になる事だと思う。
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僕は小さな現場をあまりしたことが無い。
今日僕は
「今回はいつもより話が分かりやすく感じますね」
と口に出た。
去年、炎天下で草刈りをして、嫌な思いや、辛い、痛い思いをしても
逃げなかった。
身体が自動で勝手に突き進むような感じで、否が応でも仕事をする。
金を絶対に持って帰らないといけない、と自然と力が付いたような事。
これも経験だ。
そうやって経験則、目測、計算が少しづつ上手になっている。
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帰り道にこんな話があった。
年上のお世話になっているスタッフさんが、
僕が絶望死という言葉が世界中で起きていると言う話題から突然。
「僕は自分にしか期待してないからね」
「僕らの世代や時代って言うんかな」
「親とか家に期待というか、誰々のせいとかもないし」
「自分の人生や自分の問題は、根拠はないけど自分を信じるって言うか、自分への期待しかないからな」
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僕は死にかけたあの命懸けの事を未だに外ではもう語らないだけで、自分の生きた証や生き様や想い出のような美談にしている部分もある。
それは、もうあの程度の地獄や挫折や絶望では、僕は死なないからだ。
あの程度、その程度とは、言われたくない。言うなら覚悟しておけと返す。
僕の死にたくなるような不安や問題は片手で数えられるくらいだ。
これが片手で数えられるという、この線。
ここまで辿り着けたのは、経験と、みんなの御陰(ご縁)だ。