その先の先に したがき

婆ちゃんの認知症の診察と薬を貰いに病院に行く道中、僕は気が付いた。

婆ちゃんが誰かと話をしたことについて話してきたので、内容を聞くと
「なんか話した」
「色々話したなあ、懐かしいけど何いよった(言っていた)か忘れた」

こればかりだ。よく考えると、我が家の人はかなり多い。
母親はそれを毛嫌いして癇癪を起すが、実は、母親も周りの事や自分が興味の無い事の会話については一切同じレベルで耳に入っていない。

結果的に、我が家、全員が会話の中身が無い事が多いのだ。
僕自身がどうかちょっと今は考えられないけど、どうだろうね。

何をしても、
「なんか楽しかった」
「なんかよくわからんけど、忘れたわー」
これだ。

学びが無い。
全部その時だけで、忘れていると言うより、中身を理解していない。
だから何ひとつ、身になっていない。

阿保の答えだ。小学生以下、サル並みの馬鹿だ。
だから、何をしても学びすらない。

ただただ馬鹿が阿保みたいに遊んで
「楽しかったー」
と言ってるのとまったく同じレベル。

これを繰り返しているから、この家族になるのだ。

これを「仕方がない」で済むなら、と思ったけれど、済まない。

よく考えたら、わかった。

これは、うちの家系なのだ。
阿呆が阿呆のままで、延々繰り返しやってるだけの家系なのだ。

とりあえず、ばあちゃんのレベルはこれ。

大叔母ちゃんたち夫婦も同じだ。社会経験が全くなさ過ぎる。
だからその子供が、あれなのだ。
そして、僕も同じだ。

こういうのは良くないのは解っている。
けれど、タブー視する事ではない。

ここで自己理解から逃げるのは、それこそ
「仕方がない」
「人間生まれ持ったもんがあるけん」
と言って、馬鹿が馬鹿のまま、何も学ばず、成長もせず、好き勝手に死んでいく人間の言葉と同じだ。罪だ。



今のところはそこまで的外れな事にはなっていないと今は思っている。

外との繋がりで人は成長をする。

それでも人間は、家や家族という存在が、その人の人間としての基本的土台となる。

当たり前のようになっているが、例えば親が暴力的な人で、反社会的な人間だと、子供は同じようになるのか?

違うと僕は思う。
結局はそこは、その子の人間性や性格が影響していると経験上思う。

僕みたいな人間は、僕みたいになる。ごめん、濁した。

魂の話は何度もしているから、ここで改めてしまうと嫌な気分にさせてしまう人がいると思うからしない。
でも、それだ。僕の場合は、生まれた時から安心できる場所が無いのだ。

常に感情的で不安定、安心がない家、安心が持てない家族。
気分屋の様に、態度も言動も変わる親。
パワーバランスもどこか狂っていて、僕を入れて、歪な5人の家族。

ここで生まれて、生まれた時からこの環境で育った僕は外界を知っているはずなのに、どうして社会から外の世界から学ばなかったのだろう。

それも答えが出ている。

僕が子供の頃にいた、大人たちの世界、外の社会。

それは母親が僕を連れて行き、社会勉強として、我が家が参加していた社会活動や環境活動、政治活動がそれにあたる。

僕は今でもその経験は、僕にとって財産であり宝物のような記憶だ。
普通の子供では経験できない環境だったと今でも思う。

それでも人間がやっている事だ。
上手くいかなかったり、失敗もある。そして物事には表と裏もある。

勝った負けたではないが、人間社会は人間同士それぞれの主義主張、正義がぶつかり合う。
どちらが正しい訳でも無いが、勝っても負けても、どちらも続いていく。

勝てば官軍で負ければ死刑、なら、勝つことが絶対主義で負けた人間はそもそも死ぬ条件なのだから仕方が無いが、違う。

勝っても負けても、僕らの世界はずっと続いている。

僕が子供から大人にかけて見ていた、そこにいた人たちも、同じように、色々とある。想像なんて出来ない。それだけ大きな活動だった。

でも、その道中、そこに母に連れられて向かう間。

僕は延々と、母から、そこにいる人たちの悪口をずっと聞かされ続けている。そして、そのコミュニティに僕も母も参加しているのだ。

不思議なものだ。

散々馬鹿にして、悪くも言いながら、そこに参加して、あたかも仲間や理解者のように振る舞う。

別にそう言う事もあるよと言えば特別変な事では無いかもしれないが。
確かに人間なので、社会とはそういう事は当たり前にあるのだけど。

子供の僕には悪影響でしか無い。

それに今でも思う。
今の僕でも考える。

「そんなに悪口言いたいなら参加するなよ」
「そこまで馬鹿にしてるなら関わるなよ」

でも、母は、その人たちの活動を好意的に見ているから当然参加もし、応援もし、全力で協力参加していた。

だから不思議な人なのだ。

息を吸うように嘘をつく人がいるように。
息を吸うように人の悪口を言う。
嬉し気に、気持ち良く人の事や物事の悪口を言うのが母の正体だ。

僕もそこに影響どうしても受けている部分がある。

僕も自分が人の悪口を言っている時を想像する。
時々「これは母親の影響か」と思う。

そうすると心の底から力抜け、死にたくはならないが、生きているのが嫌になる。

とはいえ、僕はそういう人間の心の闇というか矛盾みたいなものは理解できる。だから賛同はしないが、母の気持ちや言いたい事は分かる。

だから、人間としては否定も肯定もしない。

ただ子の僕は、この親を怨むし、最大限、死んでも許さない。
だから呪いなのだ。トラウマでも何でもいい。

自由にしろと言われても、僕が、それらを許さない。

それ、ら、を、だ。

ただ、家の中に、このような人間が揃ってしまうと、先天的にも後天的にも、無能で同じような人間が出来る。僕の、足りない、そうだ。

我が家は金持ちじゃない。
これは「お金」の話ではない。

どこの家にも価値観がある。普通というものがあるはず。

あえて難しい言い方にするが、その家の人間たちは、本能として子孫を残す。人間として人類として遺伝子を残す、繁殖活動をしている。

子孫が生まれる。そこで自分の遺伝子、一族、子孫が反映するように育成する。それは動物も同じ。

そこで人間は教育をする。
人間だから出来る事なのかもしれないが、動物とは違って人間は、一応、考えることが出来る。

そこで後天的な環境、教育が始まる。

人が影響を受けたり意識している価値観や常識というのは、人それぞれとはいえ、その人が育った環境から生まれた価値観だ。
その人の家や親や家族の価値観からの影響は、度合いによるが、受ける。

そして、それを子供、子孫に受け継ぐように教育をしているのも親という人間だ。

そこでどのような教育をするのか、何を見せ、何を聞かせ、社会という外の世界も教えていく。

お金とは、人間とは、そういう事も親が教える。
子供も自分で調べる。

ただ、そこで個性や人間性、成長度合いが現れてくる。

だから親が、例えば「帝王学」なんてもの教えていれば、帝王になるの?

わからないけど、僕はそういうのは詳しく知らないし、縁も無いから分からないけれど、そういう風に、親が何を教え、何を遺伝させるのかは、その家の人間たちの能力に大きく影響を与えてしまう。

うちの母親は実は、お金に関する知識が乏しい。

自分であれだけ偉そうな講釈をしておいて、不動産にしろ株にしろ、他の事も、はっきりいって無知な事が多く、好きな事でも初歩的な事すら知らない場合が多い。

それは本人が気になっていないからだ。気にしていないのだろう。
物事への思慮が浅いのだろう。

暗記や文字で書かれているような事であれば、それが大事だと解りやすいのでそこに関して理解や暗記をするが、関連性のある事や、そこから更に調べて選択肢や解釈を広げるような事が母は一切できない。

それもどこかに書いてあれば当然気が付くし、誰かに言われて教わっていれば抜け目はない。そこは出来る人だ。

ただ、目に見えないような、そこから先の予測や、僕の癖の様に関連付けていく事に関しては一切見えない盲目者なのだ。

一般的な教科書で習うような事は分かるのだろうけど、そうやって答えが一択でなければ物凄く弱い人のだ。何が弱いって、頭なのか精神なのかもう知らないが、とにかく、弱い人と言うのは間違いない。

その強い時と弱い時の差が激しく、更に歪な人間性をしているので、僕は地獄の今を生きているのだ。

間違えないで欲しいのは、子供の頃ではなく、大人になってから地獄を見ているのだ。

・・

ちなみに、上の文章の

【だから親が例えば「帝王学」なんてもの教えれいれば帝王になるの?

わからないけど、僕はそういうのは詳しく知らないし、縁も無いから分からないけれど、そういう風に親が何を教え、何を遺伝させるのかは、その家の人間たちの能力に大きく影響を与えてしまう。】

この部分。

わからないけど、の後に、僕は、と始まるのは変だと思う。

僕はそう言う事は詳しくないので分からないけれど、というのが正しい日本語な気がする。

僕が「わからないけど」の次に「僕はそういう事は」と続くのは。

「わからないけど」と頭の中で思った瞬間、キーボードを打ちながらでも、

「何で?」
という疑問の声が、即答で、僕の中に響くからだ。

だから、そこで自分で補足説明として、「僕はそう言う事は詳しく知らないので」が後から入ってくるのだ。

疲れて仕方がない。
息苦しくて仕方がない。

僕が頭の中で考えながら言葉を選んで、わからないけど、と心の中で考えた瞬間に

「何で?」

と、誰の声かは分からないけれど、その声が神経を触る、煩いのだ。

それを僕は、過去の経験からくる仮想敵としていたが、これは脳にある傷かもしれない。最近どこかで読んだ。

トラウマや強烈なストレスなどを受けて育った人間の脳には、それによって生じる傷(バグ)が出来ている。それによって自然と無意識に過緊張になったり、その後、遺症や傷に苦しめられるという話だった。

たぶん、その類だと思う。間違いないと思う。
ただ、それが全て母親とは決めつけない。

僕も色々な人と出逢った。
面白そうな話には関わっていってしまうので、色々な変な人との経験や想い出が、そういう風な思考回路を作り上げたのかもしれない。

けど、それでいい。

それでいいから、そこからの寛解を狙うしかない。

基本的に今の僕が喋りづらいのは悪い事だとは思わないが、ちょっと苦しい。

自分が考えている事、誰かと話をしている時も、基本的に僕の頭の中では

「何で?」
「何で?」
「何で?」

が、ずっと鳴っている。

想像したらちょっと面白い。ちょっとカオス。

基本的に僕はそういう誰かと喋っているような感じだと思う。
例えが間違っていたら御免。この最後の文章を追記しながら
「変な話だなあ」って、自分で笑っている。

ずっと

馬鹿みたいに、間抜けな声が

「何で?」
「何で?」
「何で?」

って。

・・

これは、たぶん、母親だけじゃない。

母も確かに想像力に偏りが激しい。
自分では頭が良いと思っているのだろうが、違う。

何でも知っている人間はいない。

けれど、多分、子供の頃から、何でも知っているという純子、という評価を家の中で、爺ちゃんたちが誇らしくしてしまった問題があるのだ。

ちなみに最近の研究で、褒めて育てると言うのはただただ無暗に褒めて子供を喜ばせるのではない、それを勘違いしている親が増えているそうだ。

今なら解るが、母は、そこまで博識でもない。
偶然、周りの人間がそういう話に疎かっただけで、ただそれが、自分は何でも知っている、と思い込んだのが少女老婆の成功体験であり、今の有様、末路に繋がるのだと思う。

こう言う事を言うと、本人はまた同じ
「金」と「僕の真似」と「詭弁」で反論するしかないけど、それは不毛なだけだ。

僕が嫌う膠着とは違う。結果は同じかもしれないが、そんな事は、痛い目を見てからでしか人は解らないし変わる可能性もゼロだ。

僕も説明が下手な悪い癖がある。
主語が抜けてしまうとか、話がかなり飛躍したり過不足の調整が出来ない。

これは遺伝でも教育でもどちらでもいい。
とにかく、治せ、直す気があるなら今から治せ、だ。

僕も、母も、自分の言いたい事や教えたいと思っている事だけをしつこく続けるだけしかない。話が長いし余計な事ばかり多い。

母は親しくなれそうな相手に。
僕は日記に。

それだけだと思う。

僕と直接会って話をする人。
僕は、ずっと一人で自分の言いたい事を必死に自分語りして、怒ったり泣いたり喜んだりはしてないと言いたいんだけど、どう?

かなり喋る方だと思うけど、感じは違うと思う。
みんなネットと現実の自分を使い分けているのでしょ?

僕もそう。
僕はネットの僕がありのままの僕。
現実の僕は、悲しいけど弱みを見せたい僕。

かな。

・・

そして、話が進んで、どこかで問題や解らない事が起きると
「私は解らんけん、○○社長に聞いて!」
「私は知らないから!」
と返すだけ。

不動産以外の事で同じことが起きると、ここで障害が露呈する
「なんで?」

子供の頃に僕に説教をする時、僕の物真似をしてアホみたいな演技をしながら僕を馬鹿にしていた時のその声。馬鹿の顔と馬鹿な口ぶり。
「なんで?」

目を真ん丸に、何も知らない顔をして
「何で?」

これだ。

あとは、うち来ていたアルバイトやスタッフの人達に説明する時に僕が苦労し続けた結果、全部説明しないと、説明しても分からない人達との接点が急に増えたせいで、更に僕のバグが大きくなっている気が今してる。

全員が被害者で、全員が加害者だと今僕は思ってこの指を止める。


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