ロックスターと夢中の熱狂
僕が音楽やライブ映像を見ている時、僕のそれは一種の講演、宣言演説という表現を聞いていると思って観ている。
アーティスト、その人の思想と主張、その人間が語る奏でる音に聴いているのだ。そこでアーティストや音に楽しむのも酔うのも自由だと思う。
僕が好きな音楽は、僕が賛同している。共感をしていると言う示しとして拍手をし、声援、手を挙げているのだ。
そういう聞き方や、そういう風に聞いている時もあるという事だけ。
だから、いつまでも同じような事を変わらず謳う事よりも、今を生きているその人の声で、歌が聞きたい。音が聞きたい。言葉が聞きたい。
同じ時を生きている者として、その存在に、今でも感謝している。
だから、子供たちの歌に感動もしなければ興味もない。
安い音楽や安易な言葉に感化もされない。
そんな事を延々と謳う曲は僕には関係ない世界だね。
僕らはロックスターたちに続く。
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他力本願とは違う。
カッコいい人の背中を見て、追いかけて自分も負けない様に頑張っていきたい。
だから、カッコいいお兄ちゃんやお姉ちゃん、同期や仲間たちの存在が大きい。
今の僕にはそういう友達がいるかと言われたら、ごめん、言えない。
僕が会いたい人たち。
彼ら、彼女たちの事を今でも変わらず大好きで尊敬している。
人間として好きなのだ。
でも、彼らも大変な中にいる。
彼ら、彼女たちをカッコ悪いとは、一切思わない。
でも、まだまだ同士。
別々の道をそれぞれ歩いているだけで、今はまだ、会えない。
でも、これも、そういう時なのだと思うようにしている。
そういう時、人生のそういう時なのだと思っている。
だから、交わる道で会える日を心から楽しみに待っている。
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そっちが先に着きそうみたいだけど。
僕の異常な逆転劇を忘れないでくれよ。
一気に、その地点まで駆け抜けて巡ってきてやるよ。
その時は何かで友に、共に酔おう。
その乾杯、が、出来る日を楽しみにしてる。
僕ら、俺たちは待ってる。
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自己愛や反社会的の人格障害は悪である。
こう書くと、そうだそうだ、と強く賛同、共感する人は。
自分がそれと同じ存在である可能性すら考える力が無いのだと思う。
同じような事を、他人に対して、自分はしていないと、微塵も考えられないのだと思う。
自分が周りにしているしていた過去は、考えられないのだと思う。
正当化して美化できても、一切、考えを深める事もしない。
自分の過去を気持ちよく振り返り語ることは出来ても、
自分と対峙して、振り返る事が出来ないのだと思う。
自戒や反省の念を込めて、それが「悪」であるなら、自分もあなたも、同類同罪だと思う。
他人に対しても善悪の判断は、人それぞれと、その人のタイミング次第だという事も気が付いていない。それが理解出来ていないと、自分が正しいと思い込んでいるだけで終わる。
他人を傷つけていたりする事も気が付かない。
他人から評価を下げている事も気が付かない。
自分の姿が見えていない。
だから、人は自分に合った環境に自ずと自然と向かっていくのかもしれない。
環境が人を成長(変化)させるだけでなく、その環境(人生)をその人を選んでいるだけ、そうも思う。
だから人間は他者ありきの存在。
他人から相手にされなくなる事が、どうして起こったのか。
自分の身に起きた時、起きる事が、なぜ生じたのか。
そこで自分は間違っていないと言い切る、自分は正しいとしか考える力すらない人は、幼稚なのか未熟なのか認知の歪みなのか正直どうでもいいけど変わらないと一生変われないと思う。変わらなくても良いと思っている人が変わらないだけなんだけど。
僕は、なぜ人が自分に対してそう解釈したのか、そこまで考えられるようにもっとなりたい。
そんな強い自分も僕の中にはある。
だからまだ未来に絶望も放棄もしていない。まだ未来を見ている。
だから、大人の考え方、は知っておいた方が良いと僕は思う。
それが出来ないから、すぐに他人を怒ったり、説教したり、押し付けや自分の価値観が他人に通用するかどうかすらも見えないのだと思う。
その結果、その行く末は、自分以外を否定していく事になると僕は思うのです。
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国が変われば法も変わり、人の生活や価値観も言語も違う。
だから、綺麗ごとは無しにして、解り合う事は一苦労だと思う。
先天的、後天的要素も大きく違う。人種、文化、環境、背景も違う。
今度は自分が知らない、理解できない、自分や自国では違反違法な事でも、非常識と言われるような事をしていても。
本人がそう思っていなければ何も変わる事はない。
変わる気が無い、どうしても変わる必要が無い人間は変わらない。
気が付かない人間である以上、
それを咎めたり注意するのは、今度はこちら側の問題にもなる。
相手、他人の自由(勝手)。
意識(自己認識、判断)の問題。