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子の母、寺の嫁、として。

母親、初心者。


いつの間にか、息子が生まれて1ヶ月以上が経っている。

「息子」と書いたものの、まだ言い慣れないし、なんだか気恥ずかしい。「赤ちゃん」とか「子供」とか、違う言い方のほうがしっくりくるような、こないような。

これから少しずつ慣れていくのだろうが、この母親初心者的な感覚さえもきっとなくなってしまうのだと思うと、ちょっと寂しい。私もきっと当たり前に”母”になるのだろうが、その過程で自分の内面が少しずつ変わっていくのをもう少し客観的に見ていたいと思う。

実感というのは、時間とともに増していくものだと思う。妊娠中、出産時、そして産まれてからと、私の中で日々何かが大きくなり、その代わりに何かを失くしていっているのだと思う。
その「何か」を、もう少しじっくり観察して、いつかちゃんと言語化できたらいい。

そんなことを思う、日曜の朝。


朝日を浴びる草木たち


いま私は、世界中の全てのママが経験する、子育てという未知の大変さを、日々の幸せとともに噛み締めているところだ。当たり前だが、今まで人生で経験したことのないこの寝不足の日々は、想像以上で驚いている。

病院での授乳はきっちり3時間おきだったが、22時以降の深夜は助産師さんたちが代わりにやってくれたので、夜は十分に寝て体の回復に努めることができた。ところによっては、深夜も母親による授乳が必須の病院があると聞いたが、身体中ボロボロのあの5日間の状態ではとてもじゃないが耐えられなかっただろう。
ただでさえ、睡眠時間があっても、最初の2日間は痛みで眠れなかったくらいだ。

ところ変わって。


私の場合は、少し恵まれているかもしれない。
退院後から今現在に至るまで、ほぼ全ての時間に旦那がいてくれるので、随分と助かっている。無職か?と思われるかもしれないが、そうではない。
いわゆる”自営業”だ。

実は、私が嫁いだ先は「お寺」。
そして、旦那は俗にいうお坊さんなのである。古き良き歴史と文化が息づく、自然に囲まれた平和なお寺だ。

都内で、いわゆるITベンチャーでせっせか働いていた私が、ひょんな縁でお坊さんと結ばれることになった。当たり前だが、そこからは人生が一変した。

それまで独り身は長かったが、公私ともに結構充実した人生を送っていたし、この性別にしてはまぁまぁ稼いでいたと思う。その分仕事は大変な面もあったが、もちろん楽しかった。やり甲斐があり過ぎて、時にちょっと事故ったこともある。
そんな私が30半ばを迎えて、もう結婚はしないだろうなと腹をくくっていた矢先に出会った人が、今の旦那だった。

馴れ初めについてはいつか触れるかもしれない。
知り合いには、「どうやってお坊さんと知り合うの?」などとよく聞かれるが、一般的な社会人だったら私もきっとそう尋ねただろう。
ただ、私の場合は、必然的にお坊さんに出会う場にいたのだ、とだけ言っておこう。


寺に入る。

そんなこんなで、想像だにしなかった「寺」に入ることになった私だが、それと同時に出産があったので、今はまだお寺の仕事らしい仕事をしているわけではない。四六時中子供の傍を離れることなく、息抜きがてらお寺の広報の仕事を少し手伝っている程度だ。

現在は旦那の実家でご両親と同居をしているので、家事などはみんなお義母さんがやってくれる。まさにおんぶにだっこと言った状態で、非常に助かっているが、今後は少しでもお寺の役に立てるように努めたいと思っている。

色々話し合った結果、一生同居というのはお互いに大変なので、新居の準備も進めている。同じ敷地内だが、来年には自分たちの家が建つ予定だ。
お寺でなくても、結婚してからの親との同居・別居の問題は色々聞いてきた。なので早い段階で自分たちの家を持つ、という話でまとまって良かったと思う。先の問題を先延ばしにすることほど悪循環になるものはない。

私にとってお寺とは、まだまだ未知の世界であり、未知の文化だ。
ただ私も少し変わっているのか、昔から「宗教」というものに興味があり、本を読んで調べ物をしたり、旅先で様々な文化を持つ人々に触れる中で、自分なりの考えも培ってきた。
なので多少の不安こそあれ、これから楽しみな部分がとても大きい。

まぁ今は子供も産まれたばかりでなかなか勉強をする時間はとれないが、どこに身を置いていてもやりたいことは山ほどある。
子育てを楽しみながら、それら一つ一つをこなして自分の人生の糧にできたらいいと思う。

さて、旦那も法事のお勤めから帰ってきたらしいので、今日はこの辺にしておこう。

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