まちづくりとボランティアと信仰の話
社会的弱者向けのシェルター活動をやっておられる大先輩と話した
こないだ、社会的弱者向けのシェルター活動をやっておられる大先輩とお話する機会があった。
人はいろんな不運が重なって、必要な社会的資本や文化資本を蓄積できないまま大人になってしまい、社会不適合を起こすことがある。そういう人たちのためのシェルターと、社会復帰のため様々な支援をするわけだが、どうすればどういう効果が出るか、ということは、長年やっていても一概に言えないというのだ。
というのも、社会的資本や文化的資本の不足のバリエーションは、人の数だけあるからで、普遍化できないというわけだ。
また、あるタイミングで効果があったように見えても、また「もとに戻る」ということもある。なんなら、被支援者側から攻撃を受けることさえある。
そういう不毛感、無力感があるが、それでも活動を続けようとする場合、何が必要だろうか。話していて、信念というか信仰のようなものではないかと思った。
費用対効果の因果関係を判断するスパンが短い
例えば人から投資を受けて事業をする場合、費用対効果、コスパが問題になる。そしてこの費用と効果との因果関係は厳しく検討され、効果がない、あるいはコスパが悪いと判断されれば、投資は打ち切られる。
この因果関係を検討するスパンは短い。例えば自治体行政の場合、市長も市議会議員も任期は4年だ。4年で成果を出さなければ、次はない。行政職員ならもっと期間は短くて、3年程度だ。
経産省の中にある、産業構造審議会 経済産業政策新機軸部会の調査によると、日本のCEO(TOPIX500銘柄のうち時価総額上位30)の平均在任期間は、1~3年が24%、4~6年が44%、7~9年が17%、10年以上が15%と分布している。社長が1〜6年で変わる会社が6割近くを占める。
私達はこのせいぜい長くても6年くらいまでの短い期間で、計画を立て、実行し、その間に投資した費用を、効果と比べて、成功か失敗か、ということを評価して、その計画を続けるかやめるか判断している。これが私達の社会のペースだ。
結果の見えないことを続けると「信仰が試される」
ところが、社会的弱者の支援というのは、1,2年ではまったく効果が見えないという。概して10年〜20年スパンだというのだ。長い。この間、いろんな変化が生じるが、その変化も直線的ではなく、上がったり下がったりを繰り返す。何をすればいいのか、いつ効果が出るかもわからない。
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