世界からなにも消えないとしたら
かたちあるものは、いつかなくなる。
春の夜の夢のごとく。
風の前の塵のように。
それは感覚としてわかっているはずだったけれど、地学の授業で星の一生を学んだとき、本当にそうなんだなと感じた。
星が辿る道は、大きさによって異なる。
軽い星は、少しずつ終わりを迎える。
重い星は、星が一気に潰れ、超新星爆発を引き起こす。
先生は淡々と語り、私も平然とノートをとっていた。
でも、わずかに、目の前が、揺れた。
星もいつかは消えてしまうのだと知って。
星の一生は、人間の命よりもはるかに長いから、私が生きている間に、知っている星が消えることはほとんどないだろう。
だけど、ちょっと寂しかった。
ハラハラと散る桜を美しいと思うように、夜空で変わらぬ光を放ち続ける星々を見上げていた。
儚いものは美しい。
でも、変わらぬものもあってほしい、そう思っていた。
すべてのものは、存在しつづける。
そう言われて、あなたは信じられるだろうか。
いや、人の命だって、花だって、散りゆくものなのだと否定したくなるかもしれない。
しかし、すべては存在しつづけると言ったイタリアの現代哲学者がいる。
エマヌエーレ・セヴェリーノというらしい。
「らしい」というのは、私が昨日この哲学者を知ったばかりで、まだこの哲学者についてほとんど何も知らないからだ。
昨晩、この哲学者について、イタリア人の先生が教えてくれた(日本語で)。
著作を読んでから紹介したいところだが、残念なことに邦訳がない。
日本語ですら理解できるかあやしい哲学の本をイタリア語で読むとなったら、ものすごい時間がかかってしまうだろう。
だが、私は、先生が紹介してくれたこの哲学者の考え方に、私は感銘を受けた。
感銘を受けたという言葉では、ちょっと足りないかもしれない。
その感動が冷めぬうちに、言葉にしておきたいと思った。
人は死ぬでしょう。
そう聞かれたとき、セヴェリーノはこう説明したらしい。
人は、鏡の前を通るとき、ある瞬間から、ある瞬間までは、鏡に映りつづける。
でも、鏡を通過する前も後も、人は何も変わらない。
人生というのは、その鏡みたいなものだって。
そう言われて、私は、わかるような、わからないような感覚だった。
でも、もうすこしで、わかりそうな気もした。
先生は、「そんなこと言われても、ニヒリズムのあとに生きる我々には、信じられないかもしれないですね。」と前置きした上で、話をつづけた。
「すべてに終わりがあるというのは、ある意味、とても楽で、乱暴な考え方でしょうね。死んだらそれで終わり。殺したら解決。そうやって、物事を解決しようとしたから、ヒトラーはユダヤ人を殺した。でも、すべては死んでもなお存在しつづけるんだとしたら。人間は、終わりがあるから丁寧に生きるんじゃない、終わりがないからこそ今を大切に生きるんだと言えるのかもしれません。」
先生の言葉を聞いて、鼻の奥がツンとした。
震災のときに亡くなった祖父を想っていた。
私は、震災後も、祖父が、震災前と変わらず生きているように思えることがあった。
そのたびに、祖父の遺骨をおさめた手の感覚を、無理矢理、思い出そうとしていた。
あまりにも突然のことだから、祖父の死を受け入れられないのだと思っていた。
けれど、そうじゃないのかもしれない。
祖父は、震災の前も、後も、たしかに存在していた。
いや、いまだって、存在している。
そうとしか思えないときが、ある。
それは、たぶん私がおかしいんじゃない。
無理に、ピリオドを打たなくてもいいのだ。
カンマとかセミコロンくらいでもいい。
いや、区切りなんていらないかもしれない。
いま祖父にハグすることも、話しかけることも、祖父のハーモニカの音を聴くこともできない。
だけど。
だからって、祖父の存在は消えない。
消したくない。
いまだって、祖父は、会えなくてもいるんだ。
たぶん、それでもいいのだ。
震災から10年経とうが、20年経とうが、祖父はいまもいる。
科学的じゃない、合理的じゃない。
いくらだって反論できるだろう。
でも、すべてのものは存在しつづける、という考え方が、私は気に入った。
まだ、うまく説明できないけれど、いいなと思った。
ただそれだけのこと。
夜空に浮かぶ星もいつかは消えると知っている私だけど。
今夜は、星空を見上げながら、なにも消えない世界を想像してみたいんだ。