
時間を共にするということ
イヤホンをつけながら、電車に揺られたり、街を歩いたりしていると、ありふれた景色が映画の中の一場面のように見えることがある。
けれど、まだそんな音楽の楽しみ方を知らなかった高校生の私は、少しだけ寂しさを感じていた。
高校生の頃、テスト期間以外は美術室にいることが多かった。
美術室はけっこうな広さがあって、数名の美術部員は、いくつもの大きなテーブルをそれぞれ独り占めしながら、自分の作品と向き合っていた。
賑やかな先輩たちのおしゃべりを聞く時間も、静かに制作に打ち込む時間も好きだった。
だが、制作に打ち込むときに、みんながイヤホンで音楽を聴きはじめると少しだけ寂しい気持ちになった。
その頃、まだiPhoneで音楽を聴く時代ではなくて、みんなウォークマンかiPodで聞いていた。
私は、そのどちらも持っていなかった。
みんなが自分の世界へと没入してしまうと、私はひとりだけ取り残されたような気持ちになった。
みんなには音楽を聴く自由がある。
音楽を聴きながら描くのはきっと楽しい。
そう頭ではわかっていても、ぷわ〜っという吹奏楽部の誰かが練習する音だとか、体育館から聞こえてくる運動部の掛け声だとか、そんな音を誰とも共有できないのがほんのり悲しかった。
ちょっと話したいことがあっても、みんなイヤホンをつけて、絵と向き合っているから、気づいてもらえない。
私も、音楽を聴いたら、それでよかったのかもしれない。
話したいことがあるなら、その人の肩をトントンと叩けば気づいてくれただろう。
だけど、そんな高校生の頃に抱いた寂しさを、大人になってからも感じることがある。
昨年のある冬の日、夫と出かけた日のこと。
そのころにはもう籍を入れていたが、まだ夫と一緒に暮らしていなかった。
夫と会うのは久しぶりのことで、何日も前から私は夫に会えることを楽しみにしていた。
だけど、夫と電車に乗っている間、夫はスマホのゲームに夢中だった。
話しかけても、ちょっと待って、と言われてしまう。
お店で順番を待っている間も、夫はずっとスマホのゲームをしていた。
別にゲームくらい自由にさせてあげたらいい。
そう思う気持ちもある一方で、せっかく会いに来たのに、とも思った。
夫がゲームをしていなかったとしても、そんなに話すことはなかったかもしれない。
私たちは、一緒に暮らしていないとはいえ、毎晩通話していたし。
そうは言っても、次にいつ会えるかもわからないのに。
せっかく会えた時間に、一人だってできるゲームをしなくてもいいじゃないか。そんな気持ちがむくむくと膨らんでしまった。
その旅行中は、楽しい雰囲気を壊したくなくて、私は自分の怒りをコントロールしようとした。夫がスマホゲームをしている間は、本を読んだり、私もスマホを眺めたりしてやり過ごした。
けれど、その旅行を終えて家に帰ってからも、膨らんだ怒りがおさまらなかった。
私は、ゲームをする夫が嫌いだと電話で話した。
電話のむこうで、夫が息をのんだのに気づいたけれど、その言葉を引っ込められなかった。
わだかまりを残したまま、その日の通話を終えた。
その次の日、ずっと私は後悔していた。
「嫌いだ」と口にした後味の悪さを感じていた。
嫌いという言葉は、強すぎた。
嫌いだ、と言った後の夫の不安そうな声が耳に残っていた。
私は、夫を不安にさせたかったわけではないのだ。
私は、ゲームが悪いものだとも思っていない。
夫は、ゲームを大学時代の友人や、夫の弟たちと一緒に楽しんでいることもある。スマホのゲームは、夫にとっては一種のコミュニケーション・ツールなのだ。
だけど、いつでも会えるわけじゃない私と会う1日くらい、私のことを優先してほしかった。
私は、寂しかったのだ。
高校生の頃の美術室にひとり取り残されていたときのように。
私は、不安だったのだ。
自分とおしゃべりするよりも、スマホのゲームの方が楽しいのかもしれないと、思って。
私は、悲しかったのだ。
夫は、私と会えるのがうれしくないんじゃないか、そう思ってしまって。
私は、その気持ちを、正直に伝えようと思った。
夫が電話に出たとき、夫も、私も、いつもより緊張していた。
夫は、電話に出てすぐに「ぼくのこと、嫌いになった?」と私に尋ねる。
たぶん、夫も一日中不安だったのだと思う。
嫌いになるわけがない。
でも、そんなふうに不安にさせたのは、私だ。
私が感じていた、寂しさや、不安や、悲しさをひとつひとつ夫に伝えた。
夫は、寂しい思いをさせてごめん、と私に謝ってくれた。
私も、嫌いって言ってごめんね、と夫に謝った。
私たちは、この日二つの約束をした。
ひとつは、喧嘩しても、その日のうちに仲直りすること。
もうひとつは、二人でいるときに、スマホをできるだけつかわないこと。
その約束はいまもつづいている。
私たちは、この日以来喧嘩はしていない。
だけど、喧嘩したとしても、その日のうちに仲直りしようと決めているのは安心感があるものだ。
あたりまえだと思い込んでいる日常が、ある日ぷつんと途切れてしまうものだということを、私は震災のときに思い知った。
最後の言葉が「嫌いだ」なんて、そんなのはあんまりだ。
いつだって明日が来るとは限らないから、いつだって今日を幸せにしめくくりたいと、思うのだ。
だから、私たちは「今日もありがとう」と言って眠りにつく。
いまは二人で一緒に暮らしているから、一緒にいる間ずっとスマホを使わないのは難しい。
けれど、二人で出かけるときは、できるだけスマホはつかわない。
乗り換えの時間を調べたり、地図を見るほかには。
電車のなかでは、一緒に窓の外を眺める。
お店で待つときにも、二人でおしゃべりする。
そんなふたりの時間が、とても愛おしい。
映画『はじまりのうた』では、主人公二人が、二人で同じ曲をイヤホンで聴きながら街を歩くシーンがある。
いつかそんなふうに、二人で同じ曲を聴くためになら、出かけるときにスマホを使うのもいいかもしれないな、と思っている。