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父が身をもって教えてくれたこと

私は父の死に目に間に合わなかった。

最後にもう一度会いたかった
そう思う一方で
道外に住むことを選んだ時から覚悟していたことなので
会えなかったことを悔やむとか 引きずるとか
そういう気持ちは驚くほどない。

亡くなる2週間前に、私ひとり帰省して
父に会えているということも大きい。
まだ夏休み前で、週末を使っての弾丸帰省だった。
2泊3日はあっという間だったけれど、今思えば会いに行って本当によかった。

昨年の入院・手術以来の再会で
すっかり痩せた父を目の当たりにして
内心では驚きとショックで何と言ったらよいのか動揺したけれど
「お父さん!ただいま!」と笑顔で挨拶できた。
父は「おーおー!(まり子!)」と目を細めて
にっこりと笑ってくれた。
目が潤んでいるようにも見えたけれど、うがい手洗いを先ずしなきゃとその場を離れた。
急いで戻ると、父はいつものように机に向かっていた。

父は机とベッドを行き来して過ごしていた。
机に向かうのが疲れると、ゆっくり静かにベッドへ移動して。
食は細いけれど、自分が食べたいものを自分で用意して
トイレにも自分で行って、着替えも自分でして。

ご飯の準備をしてあげようとしても
「いや 自分でやるから。いいよ」と静かにお断りされた。
痩せて体力が落ちて、歩くのもしんどくなってきて
少しでも動いて、歩けることを維持したかったのだと思う。

ひとつ悔やまれるのは、帰省2日目の夜に
私は友だちに会うため外出し、夕飯を一緒に食べなかった。
父はその時から体調が悪くなっていったようだった。

翌朝(私が帰る日)父は明らかに辛いのを我慢していた。
かかりつけ医に行こうと言っても嫌だといってきかない。
それでも最後は観念したように、病院に行くと言ってくれた。

今思えば、相当辛い状態だったと思う。
それでも、自分で着替えて身支度をして、お決まりの帽子をかっこよくかぶってタクシーに乗り込んだ。
私は飛行機が間に合わなくなるので自宅前で別れた。

乗り込む前に父は私に
「ごめん、まり子、(おまえが帰る日なのに見送ってあげられなくて)ごめん」と言った。
私は「いいよ、そんなこと、いいんだよ」としか返せなかった。
精一杯頑張って生きようとしている人に、頑張ってなんて言えない
まして父に。何て言ってあげればよかったのか。

あの時が最後の別れになってしまった。
私は必死に、泣き笑いのような顔で手を振って、また会いに来るからねと念じながら、見送るしかできなかった。

その後は、緩和ケア病棟で過ごすことが決まり、少量のお酒なら飲めると喜んでいたようだけれど。
夏休みは家族全員でお見舞いに行くからねと、終業式翌日にチケット取って準備していたけれど、父の葬儀のために振り替えることになるなんて、考えもしなかった。




こうして振り返ると、父の逝き方は潔いというか、父が望んだものとそう変わらなかったのではないかと思う。そう思いたい。

父はできる限り自分で身の回りのことをやり、認知症の母と独り身の息子(兄)のことを案じて遺していくものを準備しながら、ギリギリまで自分の家で過ごしたのだ。

父は自分の命を生ききった そう思えた。
本人は「遺言書ができるまでは生きたかったよ」と空の上でぼやいていると思うけど(笑)




その後、中村仁一さんという医師の存在を知り、父の逝き方と通じるものがあって、深く胸にささりました。
望まない治療はせず、家で静かに過ごし、その時が近づいても延命は望まない。自分は幸せだったと思いながら残された時間を過ごし、抗わず受け入れる。望むとおりにできそうだけれど、実際は家族によっては叶わなかったりするかもしれない。

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家族の大切さと儚さ 親への感謝と許せない気持ち 相反する現実にモヤモヤ…このどうしようもない気持ちを書くことで整理して 同じような経験をされてきた あるいはされている人たちと分かちあえたら。いただいたサポートは書くための活動費に使わせていただきます。よろしくお願いいたします。