地上の貝は息ができるか
愛の逃避行だとかのたまって実行できる奴らは、きっとよほど現実が見えていないか、もしくは現実を全て受け止めた上でそれを捨てる勇気があるかのどちらかだと思う。
そして、どちらにも属さないわたしたちには、寂れたショッピングモールの薄暗い立体駐車場にしか逃避行先がなかった。
「全然楽しくない話なんだけど」
そんな言葉から切り出す。
「ずっと聞きたかったんだけど」
うん、と彼が相槌を打った。
彼の膝に頭を乗せているにも関わらず、彼の顔を直視できない。
次の言葉を紡ごうと間抜けに口をぽっかり開けたまま何も言えなくなったわたしに、彼は催促するでもなくうん?と首を傾げる。
「…まあばれるとするじゃん」
「うん」
「で、わたしのことまではばれてないとして。相手の女が誰か喋ったら浮気は水に流して再構築する。言わないなら離婚、娘とは一生合わせないし慰謝料も養育費もがっぽり取る。なんて言われたら、わたしのこと話す?」
「話すわけ」
「いや、話すでしょ」
「あんたいつもそんなこと考えてんの?」
彼が誤魔化したような笑顔を貼り付けて体を起こした。
それをちらりと見て、相変わらず何も考えてないんだね、とも、相変わらず甘いんだね、とも言わないままにゆるりと目線を動かした。律儀にライトをつけたプリウスが、運転席と助手席を挟んだ少し前をゆっくりと走り抜けるのを、なんともなしに目で追う。
彼の動揺はわざとらしい口角だけでなく、わたしの頭を撫でる手からも伝わる。
「そりゃそうでしょ。土下座して謝れば許してもらえるあんたと違って、こっちは300万ですよ」
「大丈夫だって」
「何を根拠に。自分の嫁はそんなことしないとか信じてる人?」
「あいつは馬鹿だからそんなことできないって」
「そう男性が思っていたいだけだよ」
米神を撫でる彼の手にまた力が篭った。
うちのは馬鹿だから、なんて、好きな相手から一番聞きたくない言葉だったな、なんて思う。
それはうちの嫁という表現が嫌だとか、知り尽くしてる感じが悲しいとか、そういう類の感情からではない。
自分のことを心から信じているはずの相手に嘘をついて欲しくないその人を軽視して欲しくない、女性について何も分からなそうな信じることしか知らない阿呆な発言をしないで欲しい。
どれもこれも、わたしにだけは抱く資格のないものたちだ。
「まあ、大丈夫だよ」
「まだ言ってんの」
「俺がなんとかする。迷惑はかけない」
手つきが変わった。
「慰謝料なんてあんたには払わせない。俺が全部背負う」
わたしはその覚悟の篭った一段低い声色に飽きて体を起こした。
何を言っても堂々巡りだ。そう思いつつも、どうだか、という憎まれ口は我慢できずに漏れてしまった。
彼の厚い肩に頭を預ける。
がらがらの駐車場が、フロントガラスからはっきりと見通せた。
「…わたしね。もちろん今までにも、この人じゃなきゃだめだとか、この人以上の人はきっと現れないとか、思った経験がないわけじゃないの。だけど結局、一生やってくんだろうなって人と何度もさよならしてさ」
そろりと目線を動かすと、うん、と頷く彼と目が合った。
「でも少なくとも、一緒にいる間は、その人なしじゃ生きていけないって思ってるよ」
彼は頷かなかった。
目線を戻すと、俺も、とだけの短い呟きだけが聞こえたけれど、聞こえなかったふりをした。
俺もだなんて、冗談でも思ってないでしょう。
わたしのために何一つだって捨てる覚悟もないくせに。
ここにしか居場所がない「わたしたち」には、どんな言葉も表情でさえも、全てが自分のためでしかないのだった。
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駐車場シリーズみたいになってきたな。
前作(?)はこちら。
記事の挿入ができるようになりました。(蛇足)