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何も切りたくなかった話
髪伸びましたね、と美容師さんが言う。
今日は切らないんですかと何気なく聞かれて曖昧に笑うと、彼女は笑顔のままとりあえず今日はカラーだけですね、と毛先を摘んだ。
「この長さだとロング料金がかかりますが」
ショートにし始めてから、もう四年近く経つ。この美容院に初めて来たときには既にショートだったことも同時に思い出した。
失恋すると髪を切る女の子にとって、髪を切るという行為は痛みを伴わない自傷行為に等しい、という文章をどこかで読んだことがある。
その際は思わずうーんと唸るほどに感銘を受けたが、すべての物事に等しく例外はある。
自傷行為になり得るのであれば、わたしも躊躇うことなく切り刻んでほしかった。
伸びた髪が覚えている、彼の腕の中の温もりも、髪から香るシャンプーの匂いも、至る所に散らばっていた優しさも。
ごめん、と何回言っても言われても、わたしたちの過ごした時間は返ってこないし、わたしたちの思い描いた「これから」はもう訪れない。
それでもわたしたちの間に、もう未来のないわたしたちに、荷物にならない言葉がごめんとさよならの他に何があっただろう。
彼は元々わたしの部屋に私物を置くタイプではなかった。わたしたちの、相手の物を捨てる苦しさは、8割ほど彼に任せたことになる。
彼の青に並んだピンクの歯ブラシ。
手触りがいいやつにして、と言われて選んだもこもこのパジャマ。
突然のお泊まりに備えた化粧落とし。
「この髪型似合いそうだよな」
ふと彼がテレビを指差した。
炬燵の中でえ?と携帯から顔を上げると、CMに知らない女優さんが映っていた。
顔にではなく、わたしのやわらかい髪質にショートはあまり似合わなかった。人生で何度か挑戦して、何度ももう一生やらないと誓った。
しかしそんな誓いは、大好きな恋人の前ではなんの力もない。
その場ではそう?と言っておきながら、彼がお風呂に向かうとすぐ、彼女が食べていた商品を検索して女優さんの名前を探し当て、またGoogle検索にかけた。
似合うと思いますよ、と美容師さんは言った。多少アレンジを加えれば少しふわっとすると思います、とも。
ばっさりと切られ軽くなった頭を見て、彼は一瞬目を見開き、そしてふにゃりと表情を崩した。
わたしは何も言わなかった。
そして彼も何も言わなかった。
「…すみません、やっぱり、毛先だけ整えてもらえませんか」
「かしこまりました」
「このまま伸ばそうと思ってて」
意味もなく言い訳のように付け加えると、美容師さんは、なんかもったいないですね、似合ってたのに、と言った。
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細かすぎて伝わらない行間が三箇所くらいあるのですが、言いたくて堪らないのでこれだけ残しておきます。
今年もなにとぞ宜しくお願いいたします。