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日本を好きになる宗教のおはなし

結婚式は教会でやるし、
お葬式はお寺でやる。
クリスマスにデートを楽しんだと思えば、
その数日後には神社へ参拝に行く。

とかく日本の宗教観は節操がない。

信仰心はどこへやら。
宗教行事はもはや単に商業化され、コンテンツとして消費されてしまっているだけに見える。

それだけじゃない。

「日本人は宗教に無関心!」
「宗教って洗脳でしょ!」
「戦争の原因になるから怖い...」
「事件とか起こしそうで怪しい...」

などなど…。
宗教の話をするときは常にネガティヴ・イメージがついてまわる。敬遠されがちどころか、もはやこの話題はタブーな空気すらある

宗教について「興味ないなぁ」と思ったそこのあなた
ぜひ最後まで読んでいってほしいと思う。

今よりちょっと日本を好きになる。
そんなおーくぼなりの、宗教の話をしてみる。

※ 全文を通しておーくぼの個人的見解にまみれてます。

1. 信じるか信じないかはあなた次第

『日本人は宗教に無関心』
この指摘はある意味では正しい。

確かに無関心の人が多い。
しかし実は無関係では無い。

日本に生きている以上宗教と無関係のまま過ごすのは不可能なのである。ほとんどの日本人は、知らず知らずのうちに宗教の影響を受けている。

嘘だと思った方もいるかもしれない。
信じるか信じないかはあなた次第だ。

例を挙げてみる。

この年の瀬にあなたは大掃除をしただろうか?
「年末といえば大掃除」というのは日本に生きていれば当たり前になっているが、実はこれは神道の「穢れを払う」という考えに基づいている。(諸説あり)

現代において「穢れを払う」という意識で年末の大掃除をする人がどのくらいいるのかは分からないし、単に習慣として定着してる様な気もする。

とはいえやはり無関心であっても無関係ではない。

他にもある。

いただきますの時に手を合わせる意味。
家に入る前に靴を脱ぐ意味。
子どもの成長を願う七五三の意味。
家を建てるときの地鎮祭の意味。

意識していないだけで根付いている宗教的文化・慣習は枚挙に暇がない。

興味があったら調べてみてほしい。
そして教えてほしい。

※これら全て諸説あり

2.爆音の聖歌が強制的に耳に残る

私が2年暮らしたナミビアはキリスト教が根付く国だった。田舎まで行けば民族ごとに独立した信仰(黒魔術など)は存在するが、人口の大半はキリスト教徒だ。

一部地域にのみ残る黒魔術。
捌いた羊の腸の形状を見て未来を占う。

私が働いていたモーレソン特別支援学校でも毎朝お祈りの時間があった。毎週金曜日には外部講師がやってきて、どデカいスピーカーをわざわざ搬入し、けたたましいEDMサウンドとダンスと共に爆音で聖書を読み上げる授業が展開されていた。校長は敬虔なクリスチャンで、この爆音の聖書の学習やクリスマスなどの宗教行事をとても大切にしていた。

金曜日は私服DAY
年齢も性別も関係なく踊る(聖書の授業です)
マイク持って爆音で歌う聖歌。気持ちよさそう。

ある日、ナミビア人の同僚と宗教の話題になった。

「Mr.おーくぼ。日本人は仏教を信仰してるんだろ?お前もそうなのか?」

返事に窮する。
キリスト教という世界最大級の宗教コミュニティの一員である彼に、日本の宗教的価値観をどう説明したら理解してもらえるのだろうか。

私は迷った末に、拙いボキャブラリーで一神教と多神教の違いから話すことにした。

3. 一神教と多神教

一神教と多神教の違いをAIに聞くと以下の通りだ。

一神教:一神教は、唯一の神だけを信仰する宗教のことを指します。例として、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教があります。これらの宗教では、全宇宙を創造し、支配する唯一の存在が神とされています。

引用:chat-GPT

多神教:多神教は、複数の神々を信仰する宗教です。これにはヒンドゥー教や古代ギリシャ・ローマの宗教、日本の神道などが含まれます。多神教では、神々がそれぞれ異なる役割や特質を持ち、世界を管理していると考えられます。

引用:chat-GPT

文字通り、神様の数が違う

キリスト教における「神」は「イエス・キリスト」ただ一人である。唯一の神と向き合い、誓いを立て、懺悔し、赦しを得ることでココロ救われながら生きていくという精神活動がベースにある。

一方、日本古来の信仰である神道の世界には「八百万の神」が存在する。「森羅万象、万物に神が宿る」と言うがこれは要するに、全ての事物の数だけ神が存在するということなのだ。

山には山ごとの、
川には川ごとの、
物には物ごとの、
現象には現象の神が存在する。

やお‐よろず〔やほよろづ〕【八百万】
数の限りなく多いこと。多数。無数。

出典:デジタル大辞泉(小学館)

そこへさらに仏教の世界観も混在する。
仏教においては祖先信仰が強く、人は死後仏となってその子孫を見守っている。我々は生まれながらにして神仏に囲まれていて、自分の祖先は常に自分のことを見守ってくれている状態なのだ。

「全ての物やできごとに神様が宿っているんだよ。ブッダだけじゃなくてたくさんの神様が日本には暮らしているよ。」

そう説明したときの同僚の困った顔は忘れられない。
どうやら一神教の世界で暮らす人々には「神がいっぱいいる」というのは理解しにくいらしい。

4.日本人らしさ

小さい頃よく「お米ひと粒には7人の神様が宿っているんだよ」と教えられた。ご飯を残したら罰が当たるから残すなよ、という教訓的な教えだ。

食べ物を残したり、
物を雑に扱ったり、
靴のまま家に上がったり。

それらの行為が「なんとなく罰当たりに感じる」という感覚は多くの人が共通して持っているものだろう。

この「なんとなく罰当たりという感覚が多くの日本人に共通して根付いているという事実」が、日本に多神教的文化が根付いていることの証明でもある。

よく考えたらそりゃそうだ。

全ての事物に神様が宿っているということは、物を粗末に扱うことは神様に乱暴をするようなものだ。日本人の「物を大切にする精神性」はここから来ていると考えられる。

2005年にノーベル平和賞を受賞したワンガリ・マータイさんが来日した際に、日本人の「もったいない精神」に感銘を受け、「MOTTAINAI」という表記のまま世界中に拡散した。日本の「もったいない精神」が国際的に称賛を受けたことを覚えている人もいるだろう。

この精神性は物を大切にする事だけに留まらない。
人との付き合い方にもそれは顕れている。

お国柄を表現するときに「海外に比べて日本人はシャイで他人に対して距離感がある」というイメージがあると思う。しかし、これは単にシャイというわけではない。

日本人が初対面の他人と距離をとるのは「他人の領域をずけずけと侵すことはバチ当たり」だと無意識に感じているのではないだろうか。

私たち日本人は皆それぞれ、祖先という名の仏様に守られたある意味神聖な存在である。そう思えば他人を尊重する気持ちが自然と根付いていたって不思議ではない。

日本人は「シャイ」でもなければ「他人との距離が遠い」わけでもない。お互いの神聖な領域を侵さぬよう尊重しあう美しい精神性を持っているだけなのだ。

と勝手に思っている。

物を大切にする日本人。
他者を尊重する日本人。

これらは宗教や信仰と無関係ではなくしっかり根付いた日本人らしさなのだと思う。

5. 恐るべき吸収力と器のデカさ

そんな世界的に見ても個性の強い日本の宗教事情だが、最大の特徴はその吸収力と器のデカさではないかと個人的には思っている。

少し昔の話になる。

小さな弱小島国だった古来の日本は、大国と肩を並べるために「仏教」という外来種の輸入品を取り入れて国力の拡大を試みた。

そして神仏習合などを経て、あっという間に咀嚼し「日本独自の仏教」に改変していった。

今となってはインド仏教ともチベット仏教とも、中国の仏教ともその特徴を異にしている。

思い出してほしい。

日本の神道の特徴は「森羅万象に神が宿る」という世界だったはずだ。満を持して輸入した海外産の「仏教」も、神道の世界観で捉えれば「八百万の神々のうちのひとつ」に過ぎなかったのだろう。

思えば日本は昔から「海外から入ってきたもの」で歴史が動くという特徴がある。

種子島の鉄砲伝来。
ペリーの黒船による開国。
近年でいえばガラケーからスマホへの移行もそうだ。

日本は日本としての独自の文化をしっかりと築き上げながらも、輸入品についても「神道の世界観で見れば全て八百万の神々のうちのひとつ」と咀嚼し、消化してやがては日本オリジナルのモノにしてしまうという特殊能力があるのだ。

ここで冒頭の文章を繰り返してみよう。

結婚式は教会で、
お葬式はお寺でやる。
クリスマスにデートを楽しんだと思えば、
その数日後には神社へ参拝に行く。

これは実は全く不思議なことではない。
神道の文脈で見れば、キリスト教もクリスマスも教会も「八百万の神々のうちのひとつ」になってしまうのだ。

...チートすぎん?(心の声)

異教の文化ではなく、八百万の神々のうちのひとつ捉えて柔軟に受け入れ、現在では変な衝突もなく日本に定着している。

ものすごい吸収力と器のデカさである。

「日本のクリスマスは邪道」
「ハロウィンの本来の意味を理解してない」
という声はよく聞くがそれはとんだお門違いな指摘である。

どんな宗教も思想も否定せず「八百万の神々のうちのひとつ」と受け入れてしまう器のデカさの結果が、今の混沌とした無宗教に見える状況(実際はそうではない)を産んでいるに過ぎない。

6.感謝しながら生きる

とはいえ普段から宗教的なことを意識して過ごしている人は少ない。別に明日から何かを変える必要もない。

実は神道には教えがない
教義も経典もないし、教祖もいない。
厳密にいうと宗教の定義にすら当てはまらない。

まぁ定義自体曖昧なんすけどねえ

神仏は我々になにかを教えてくれる訳でもなければ、救いを与えてくれる訳でもない。どんな思想もどんな行為も否定せず、ただそこに存在しているだけなのだ。

なにも否定せずそこに居てくれる安心感というのは本当に心強いものだ。それだけで心の支えとしてはもしかしたら充分かもしれない。

それでも時々、
人智を超越した現象を見たときに人々は

「神掛かっている」
「バチが当たった」

と神様を意識した発言をする。
やはり「どこかで神様は見ている」という感性はうっすらと日本人の心に残り続けて無くならないのだと思う。

時々は神社に行って神様に手を合わせるのも良いのかもしれない。

神様いつもなんも否定しないでそばに居てくれてありがとうございます。おかげさまで今日も生きてます。

と。

あぁでも全てのものに神様が宿っているなら、わざわざ神社なんか行かなくてもこの当たり前に過ごしている平凡な日々のすべてに対しても感謝の気持ちを持って生かなきゃいけないのか?

これは忙しくなってきた。
ま。バチが当たらない様に暮らして時々感謝するくらいで生きていこうかな。

面白いな日本は。


※この文章を書く上で、日本にも多くの宗教を信仰する方がいらっしゃる事を理解しており、その方々を否定したり卑下したりする意図は一切ございません。もしこれはあかんぞという事があれば教えてくださいね。

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