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レストランでのアルバイトが開いてくれた、新しい扉

新聞やウェブメディアで25年間、記者の仕事しかしたことがないのに、ひょんなことから近所のイタリアンレストランで接客のアルバイトを始めた。その日々を綴ったエッセイが昨年、本にもなった。知らない世界に思い切って飛び込んだことで、私は日々、新しい自分と出会えている。

※この文章は、國學院大學とnoteで開催するコラボ特集の寄稿作品として主催者の依頼により書いたものです。

「このままでいいの?」50歳を目前に漠然とした不安


きっかけは2022年8月、散歩中、店頭に置かれた黒板メニューを見ていたら、突然、ワイングラス片手に出てきたハンチング帽姿のオーナーシェフに「おう、一緒に呑もうぜ」と声をかけられたこと。一緒に呑んで楽しくなり、そこで働くことを決めたのだ。このあたりのいきさつは「バイト日記」やそれをもとに出版した本『今日もレストランの灯りに』(イースト・プレス)に詳しく書いてあるので、ぜひお読みいただきたい。

バイトでの日々をまとめた著書『今日もレストランの灯りに』(イースト・プレス)

当時所属していたオンラインメディアの報道部門がその後、廃止されるなど、キャリアの曲がり角に差し掛かっていたのは間違いない。

ただ、よくよく振り返ると、それ以前に私は居心地が良くなり過ぎてしまった自分の仕事や生活に「このままでいいのか」と不安を感じていたのだと思う。ベテランの医療記者として業界ではある程度名が知られ、家族や周りの大切な人たちとの関係も凪のように穏やかだ。

恵まれていることはわかっている。それでもこのまま温かい毛布のような毎日にくるまれていると、同じことを繰り返したまま年老いてしまう。

「中年の危機」なのだろうか。50歳を目の前にして私は変化を求めていた。

ささやかながら自分が育んできた世界に誇りや愛着を感じる一方で、何かにこれまでの自分を揺さぶられるような怖さと喜びを味わいたかったのだ。

別の視点を得て、複雑に立ち現れてくる世界


居酒屋通いが趣味で、母や亡き祖父が料理人のため飲食業には親しみがある。しかし、実際に働いてみて裏側を見ると、驚くことばかりだった。

職人肌で味にこだわるシェフは、トマトソースやジェノベーゼ、ボロネーゼなど基本のソースだけでなく、ブイヨン、ガーリックオイル、発酵調味料やベーコン、カラスミ、パスタやピザ生地など何でも手作りする。

午前2時過ぎに豚肉のロースト「ポルケッタ」を仕込むシェフ

だから毎晩のように店に泊まり込み、営業時間以外は早朝から深夜まで買い出しや仕込みに追われる。週1回の休みの日も夕方まで働いて家族と過ごす時間はほとんどなく、少々の体調不良では休むこともない。

「お客さんが喜んでくれるなら、いくらでも手間をかけるよ」と命を削るように働くシェフの姿を間近で見て、コロナ禍、医療記者として感染リスクの高い飲食の場面に注意を促してきた私は筆が迷った。お客さんがいっぱい入って店が「三密」になるほど、シェフの苦労が報われるようで素直に嬉しくなる。

感染対策の煽りを受けて痛めつけられてきた飲食店の苦悩が自分ごととなると、医学的な視点だけを前面に押し出せなくなる。原稿の表現ひとつとっても影響を受けそうな仲間たちの顔が頭に浮かび、いちいち考え込むようになった。

これは私が本業で取材している障害や依存症のある人、性的マイノリティらについても同じことが言える。

取材をきっかけに個人として親しく付き合うようになると、彼らが日々直面している困りごとや、差別・偏見の視線に敏感になる。「仲良しの○○さんはどう思うだろう」。そんな視点が自分の中に根付くと、使う言葉や態度も変わる。

想像力だけではカバーできない、多様な顔の見える人間関係と、感情が伴った複数の視点を持つと、世界はより複雑に立ち現れてくるのだ。

本音で付き合える人間関係


バイトを始めて、泥臭く、本音で付き合える人間関係を大人になってから得られたのも幸運なことだった。

シェフはそれまで私の周りにいた「お行儀のいいスマートな人」とは全く違う。

バイト初日から3つ年上の私は「姐御」「姐さん」と呼ばれ、「八十吉(小錦の日本名)」「太っちょ」「O D B(おデブの略)」というあだ名までつけられた。体型を揶揄することはアウトな時代に常識外れだが、子供のまま大きくなったようなシェフのキャラで言われるとつい笑ってしまう。そして、逆にボスであるシェフに対してもズケズケと言い返す隙を与えてくれる。

シェフはお客さんに対しても、「イエーイ」と乾杯しながら、「ねえさん」「アニキ」と呼びかけ、グイグイと境界線を踏み超える会話を仕掛けていく。自分のことも驚くほど明け透けに語る。

最近、仲良しになった常連さんの櫛井優介さんとシェフ。自身の出版イベントの帰りに寄ってくれて、私たちにもお祝いのワインをごちそうしてくれました。

そのくせ繊細なところやシャイなところもあって、お客さんの言葉や態度に傷つき、クヨクヨしたり、イライラしたりすることもある。それでもシェフはへこたれない。やっぱり次の日にはまたお客さんに話しかけにいく。そんなシェフのキャラを気に入った人は、常連さんになってくれるのだ。

先日は、初めて来店した40代のご夫婦と一緒に呑みながら、「お子さんはいらっしゃるんですか?」とシェフが尋ねたことがあった。子供がいない私は慌てて「初対面の人にそんなこと聞かないの!」と強めに注意した。結婚や子供についてはデリケートな話題として避けるのが、今時のマナーだ。

だが、そのご夫婦は聞き上手のシェフに長年続けた不妊治療を少し前に諦めたことをポツポツと語り出し、二人での人生を充実させようと外食も楽しんでいることを教えてくれた。そばで聞いていた私も自然に自分の治療経験を伝え、最後には「子供のいない人生も楽しいですよね」と笑い合えた。

自分でも意外な展開だった。子供を欲しくても授かれなかったことはずいぶん前に心の整理がついたが、そのことを私はこれまで他の人にあまり話してこなかったから。相手に気を遣わせるのは嫌だし、面倒くさい。おそらくこのご夫婦もそうだろう。

このご夫婦は後日、結婚10周年のタイミングでも来てくれて、一緒にお祝いの乾杯をした。「なんだかこの店は不思議なぐらいリラックスできるんですよね」。そう言ってくれて、今では大切な常連さんの一人になっている。

そんなシェフに影響された私も、手が空いている時はお客さんと飲みながら語り合い、かけがえのない人間関係を築いている。

医療記事が書けなくなったことを話しながら泣いてしまった時、慰めて送ってくれた常連の千葉さん。昨年最後のバイトの日も、深夜までワインをごちそうして労ってくれました。

不本意な異動で医療記事が書けなくなった時は、お酒をご馳走しながら慰めてくれたシェフと常連さんの前で泣いてしまい、心配した常連さんが帰り道、送ってくれた。私がシェフに厳しく叱られて「もう店を辞めようか」と悩んでいた時は、この常連さんたちが外に呑みに呼び出してくれて、じっくり愚痴を聞いてくれた。

婚活中の20代の常連さんは、店に来ない日も私の携帯に電話をかけてきては恋愛相談を持ちかけてくる。かと思えば、シェフの誕生日やお店の10周年記念には得意のバイオリンを演奏してくれる。

サービスを提供する店と、サービスを受けるお客さんという一方通行ではない、お互いに思いやりを与え合う関係になっているのだ。

心の鎧をほどく暑苦しいパワー

自分の子供であってもおかしくない年齢の大学生や高校生のバイト仲間とも一緒に飲み食いすることはしょっちゅうだ。

子供のような年齢のバイト仲間やシェフと。左からシェフ、カツマー、コイズミ君、コウタ君

シフトに入っていない日もみんな「ちょっと来いよ」とシェフに呼び出されては、一緒に時を過ごす。近所に住む私の自宅にもシェフと共に深夜に押しかけてきて、互いに肴を作りながら語り合うこともある。子供のいない私は、疑似家族のような気分を味合わせてくれるそんな関係がとても愛おしい。

年を取ると、人には様々な事情があることがわかるから、安易に他者の人生に踏み込むのを避けるようになる。大人として当然の振る舞いではあるが、その気遣いが相手との心の距離を生むのも確かだ。

人間が大好きで天真爛漫なシェフのキャラは、そんな当たり障りのない人間関係に慣れてしまった私たちに、心の鎧をほどかせる暑苦しいパワーがある。

もちろん、それに抵抗を感じる人もいるだろう。タイミングや相手の状況によっては、不快に思わせたり傷つけてしまったりすることもあるかもしれない。実際、私もシェフとしょっちゅう衝突している。

それでも、一歩踏み込んで素の自分で他者とぶつかり合うと傷つくかもしれないけど楽しい、ということをこの店でのバイトで改めて学んだのだ。

本業と副業と、新たに挑戦したいこと

ワインスクールに通い始めました

バイト生活も2年目となり、いつの間にか、私がバイトで一番の古株になった。こんなバイト生活から刺激を受け、50歳になった私は今年、2つの野望を抱いている。
 
本業では、専門の医療分野だけでなく、飲食業界で働く人たちを取材して記事を書くこと。そしてこのバイトでは、接客担当としてお客さんにもっと満足いただけるワイン選びをお手伝いできるようにワインエキスパートの資格を取ることだ。
 
一つ新たな扉を開けると、そこでの出会いはまた別の扉に自分を誘ってゆく。大丈夫、私はこれからもまだまだ新しい自分に出会える。


國學院大學とnoteのコラボ特集「#今年学びたいこと」はこちら


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