『自覚と悟りへの道』の読書感想文①

 この書籍は、主に神経症的傾向で悩む人のために向けられた本である。森田正馬と患者が月に一度に開く「形外会」という会合を記録し、まとめた書物となる。

 まず、まえがきから驚いたのは神経症=ノイローゼというものは、「もともと精神的な原因によって起こるものであるから、薬物による治療では根本的に治すというわけにはゆかない。」と述べられていることだった(いや、有名なことなのだろうけれども、知らなかった)。
 私自身、神経症だと診断されていて、薬物治療も行っているのだが、ときに強迫的な症状はどれほど薬に頼ってもちっとも良くならないことは多々あった。しかしながら、そもそも考え方を司るのがニューロンであるならば、医学的アプローチをするしかないのではないか、と思っていた。いまでもそう思っている節はある。
 したがって、その理論には少し懐疑的だったのだが、書籍を読み進めていくうちに、自分自身すっかり森田療法を受けてみたくなった。投薬によるリスクも当然享受しながら治療を行うなかで、理論による半ば心理学的アプローチで寛解するのなら、身体の負担を考えればそれに越したことはないからだ。現に読み進めていくなかで、何だか治療を施されているような気分になり、それからというものの、生活するうえで神経的症状が少しマシになったような、気がする。

 読書、偉大なり。

 もうひとつ、「神経症治療の根本は『再教育』である。」とあり、まさに私が神経症的症状から解放された実感としてあるときはいつも「教育し直された」と思うときであったように思う。それは、恩師によってであったり、友人からであったり、上司からであったり。決して専門的なところばかりでなく、日常が私を、否、私の中の世を直してくれていた。
 そして森田正馬は「科学も宗教も、人間がよりよく生き、安心立命を得るためのものであり、けっして互いに排斥し合うべき性質のものではない。」という考え方を示している。これは非常に重要で、河合隼雄にしてもそうだがやはり、偉大な業績を成し得る方というのは、このような清濁併せ吞む価値観を備えている。分断が不毛であることを指しているが、二項対立により栄える側面もあることもまた事実であり、このことは取りも直さず「和」の難しさを示唆している。

 人が向上する要件のひとつに、自分のあるがままを認めることとある。例えば、自分は頭が悪いと認めるから人よりも努力し勉強に向かい、自分は不寛容であると認めるから、人の寛容のなさを受容できる。
 そして人の心の中にある「恐怖」と「欲望」。このふたつが自分のなかで相克してこそ、修養の道が拓かれると述べている。これはエロスとタナトスを彷彿とさせるものがある。また、神経症になる/なったことを後悔する当事者に対して「その体験によって悟りに達することができる」という森田。これはまさにユングでいう「個性化の過程」に通ずるものである。
 「個性化の過程」といえば、自分の男性性と女性性が統合されてこそ自己実現に向かい、そこには創造と破壊が差し込まれるという。これはパラグラフの前半にある「恐怖」と「欲望」という二つが相克されるプロセスと似ている。うーん、やっぱり学派は違えど、行きつく理論は重なるんだな。 

 また、神経症患者は往々にして疾病利得に甘えるものだが、それを普通の健常者として取り扱うことによって症状が良くなるという話には、なるほど膝を打った。特に実例に際して、当事者が「このようなことは普通の人には想像できまい」と自身の症状を述べたのに関し、「誰でも同じであるという『平等観』に立ちなさい」と森田は話す。そこの境地に立ち初めて人に対して思いやりを持てるのだという。つまり、我執ではなく他者を考えられる余裕ができるということ。自己と他者を切り分けることが差別観に繋がるのであり、そしてその平等と差別の両面から物事を正しくつかむことを森田は「事実唯真」と呼んでいる。

 そして、「『自覚』とは、自分というものを正しく、ありのままに認めること。(…)自覚を得るには自分の本性を正しく深く細密に観察し認識さえすればよい」ということで「自覚」について文中で説明がなされているが、まさに「自分の心を深く観察することによって、ほかの強迫観念の心理でも、狂人の心理でも、自分の心にもそれと同一あるいは共通の心理があることがわかる。」、それは他者への苦痛に共感、理解を示すことであり、そしてそれは取りも直さず上記述べている「平等観」や差別意識へのアプローチに繋がってくるのだという。

 たしかに、「自分は差別をしない」という前提に立つことは烏滸がましい。人間世界で共生を営むうえで、そうした差別的無意識あるいは自意識とは切っても切り離せないからこそ、自覚を努める。これは、誰しもが当事者でありマイノリティであることとも通ずる。決して他人事としないこと、特別意識を持たないこと。そうした地平に立つところから、私たちの自覚と悟りへの道の第一歩が拓かれるのかもしれない。


*読書感想文②へ続く

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