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遠隔授業の不自由と障碍
2017年5月に川上量生さんの「ネットの高校 N高の取り組みについて」という講演を聞いた時、これはぜひ学生に知らせたいと思い、ドキュメントを共有してコメントを付けさせました。当時の学生たちの反応の中で印象的だったのが、「こんなのは、ほんとうの学校じゃない」という類いのものでした。
サッカーの元日本代表である秋田豊をコーチに迎えたサッカー部は、ネットの高校であるがゆえに、リアルサッカーではなくウィニングイレブンに取り組んだわけですが、「そんなのは、ほんとうの部活じゃない」というわけです。
「ほんとう」を前面に押し出す言説に出会った時に、後ろに回り込んでヒザカックンをして相手をシオシオのパーにするというのが、若い頃から文学の世界に耽溺してきた私の性分です。
ですからそのときの私も、「ほんとう」という物語を前面に押し出すことが、いかに暴力的で抑圧的であるのかということについて、学生たちにやんわりと伝え、その傲慢をたしなめたのでした。
そして令和2年4月の今、私たちは「ほんとう」という物語から放逐された場所で、「学校」や「部活」の意味をあらためて問い直しています。
そしてボヤくのです。「リアルならすぐに済むことが、こんなに面倒くさくて時間がかかかって、まったくやってられない…」と。
じかに相手に向き合うこと。
はっきり見えること。
しっかり聞こえること。
そんな「あたりまえ」のことができなくなっていることに、ついついイライラしてしまいます。
そして「こんなのは、ほんとうの授業ではない」とか「やっぱり実際に会わなきゃね」などと考えてしまいがちです。
でも私はやはり思うのです。
ほんとうって何?と。
私たちが向き合っている「不自由」や「障碍」は、たとえば4歳からスキーを始めてインターハイ出場を目指していた時に半身不随になったアルペンスキーの森井大輝さんの「不自由」や「障碍」のように、失意のどん底に落ち込むほどのものではありません。
そして、森井大輝さんがメダルを取ったチェアスキーは、「ほんとうのスキー」です。パラアスリートにとっては、私たちが「不自由」や「障碍」と呼ぶものこそがリアルなのです。
見えなくても、聞こえなくても、スポーツはできます。
半身不随でも、腕がなくても、スポーツはできます。
眼差しを交わすことができなくても、発話することができなくても、心を通わせることはできます。
自由に移動できなくても、寝たままでも、友だちをつくることはできます。
いらだつことなく、あるがままの自分を受け入れ、あるがままの相手を受け入れ、そこから対話的な関係を立ち上げること。
できること、できないことのデコボコや、ずれること、違うことの面白さを認めること、楽しむこと。
こうしたことは、インクルーシブな学びの場を作ろうとした時に、心を砕くべき要諦であるはずです。
「対面」できないまま「遠隔」で授業をせざるを得ないという現実を前に、それでもなお「学生」と関係をつくり、「大学」という場を維持し、新たな「学び」を創出すること。
「研究」活動を展開し、「学会」を開催すること。
家族、親戚、旧友・悪友、恩師、教え子、同僚、同志・・・との関係を豊かに生きること。
不自由や障碍を前に「YES」とつぶやくこと。
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