アウトプットはインプットを変える!
児童生徒がアウトプットを意識すると、インプットに前向きになる。
インプットしなければ、アウトプットできないからだ。
インプットに前向きになれば、その分だけ「主体的な学び」へと足を踏み出すことになる。
ところが、アウトプットの宛先が「先生」である場合、「主体的な学び」というわけにはいかなくなる。
「先生」という宛先を意識すると、インプットのポイントが「先生が教えていることをしっかり受け取って理解すること」によって「先生が何を求めているのかを忖度すること」になるからだ。
結果として、受動的なインプットによる、従順で主体性のないアウトプットを生み出すことになる。
「私はこの本から学んだことを生かして〜していきたいと思います。」と結ばれている感想文などは、こうしたアウトプットの典型例である。
教室内にいる仲間たちとの相互評価的な世界の中でアウトプットをする場合も、空気を読んだり内輪受けをねらったりすることになりがちで、前向きで豊かなインプットへのインセンティブが働かない。
アウトプットの宛先が社会に向けて開かれた時に初めて、インプットに対する児童生徒の意識を変容させる可能性が生まれる。
「先生」の眼差しも、教室にいる仲間の存在も、そのようなインプットからアウトプットへの展開との関わりの中に置かれた時に初めて活きる。
「社会に開かれた教育課程」と「主体的・対話的で深い学び」との関係は、ひとつにはこうした構図の中に位置づけられるのだ。
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