朝起きたら、戦争がはじまっていた。 - イスラエル・パレスチナから出国するまで -
「戦争って、こんなに簡単に始まるのか。」
私はそう思いながら、壁の前でたたずむことしかできなかった。
朝起きたら、戦争が始まっていた。
私がいたのは、パレスチナ自治区。
まさか、自分が人生でこんなこと体験するとは思ってもなかった。
ずっと行きたかった、イスラエルとパレスチナ。
半年前から計画し、会社をおやすみして行った。
最後日は、パレスチナ自治区内にある、バンクシーがつくったホテルに泊まろう!と決めていて、ベツレヘムという街に向かった。
(パレスチナはガザとヨルダン川西岸地区の
2つに分かれていて、ベツレヘムはヨルダン川西岸地区にある。)
エルサレムからバスで移動したのだけれど、
ベツレヘムに近づくほど、見える景色が変わっていった。
ヒジャブをかぶった人、舗装されていない道路、
アラビア語の表記が一気に増えた。
ベツレヘムはキリスト教の聖地でもあり、観光客も多い街。
実際住んでいるのは、アラブ系イスラム教の人が多い。
私が泊まったバンクシーホテル(The Walled Off Hotel) は、
「世界一眺めの悪いホテル」と言われている。
窓を開けると、目の前にパレスチナとイスラエルを隔てる壁があって、
たしかに、眺めは悪かった。悪すぎた。
バルコニーに出ると、同じ高さには、大きな監視カメラと鉄線が。
息がつまるような、景色だった。
朝、日光を浴びようと私はバルコニーに出た。
秋のひんやりとした空気の中で、目の前の壁を眺めていたその瞬間。
聞いたことのない音量の爆撃音がして、
遠くの方に灰色の煙が立ち上っていくのが見えた。
同じように窓から顔を出している旅行客が。
下を見ると、様子を見に道路に出てくる人がいた。
これが、戦争のはじまりだと知ったのは、その数時間後だった。
戦争が、はじまった?今いる国で?
しかも、こんなに、一瞬で?
悪夢なのか、現実なのか。
正直、よくわからなかった。
パレスチナから、出られなくなった
分断の象徴でもある、700kmにもおよぶ壁。
それがただのコンクリートの壁ではないことを、
私は現地のパレスチナの人に教えてもらったばかりだった。
一緒に現地のパレスチナ料理を食べながら(めちゃくちゃ美味しい)
パレスチナの歴史を教えてもらい、
バンクシーの絵が描かれた壁を見に行って、その絵をギャラリーで買い、
深い眠りについた、その次の日の朝だった。
気付いたら、国境が封鎖されていて、
チェックポイント(パレスチナからイスラエルに行くときに通る検問所)もすべて閉まり、イスラエルから出国することはおろか、
パレスチナ領地からも出ることができなくなっていた。
なにが起きているのかわからないまま。
乗るはずだったフライトにも、乗れないまま。
ロビーでひたすら、待機。
朝ごはんに頼んだファラフェルとフムスは、
冷たく硬くなってしまった。
まったく喉を通らなかったけど、
「いつ何が起こるかわからないから、
今食べた方がいい」
と言われて、胃に押し込む。
「1ヶ月分の食糧と水を買ってきます」と、
他のパレスチナの街にいる方からメッセージが届く。
“ Something different “ “ It’s gonna be FUCKED UP "
と、現地のパレスチナ人が声を荒げている。
待って、私、かなりやばいところにいるんだ...
どんどん戦争は悪化する。
だから、一刻も早くイスラエルに移動しないといけない。
でも、壁の向こうには、行けない。
という状況だった。
壁がつくりだしたのは、なんだったんだろう
そんな中、わたしが一番驚いたのは、パレスチナ人の反応だった。
ロビーで待っている私に、現地のパレスチナの人が「今、こんなことになっている」と、パレスチナ人が壁をバイクで突破する動画を見せてくれたのだけれど、
その動画の下に、たくさんの「いいね」「ハート」がついていたのだ。
温度感でいえば、ワールドカップのような盛り上がり。
「壁をついに破っただと!?」「いけいけ!」というかんじで、
声援が送られていた。
「え?こういうかんじ?」と、びっくりした。
だけど、どこかで、パレスチナの人の気持ちも、少しわかってしまった。
(もちろんハマスの残忍な行為を肯定する気は1mmたりともないですが)
それは前日に、パレスチナ人がいかに生活を虐げられてきたか。パレスチナ料理越しに、パレスチナの人が教えてくれたからだった。
イスラエル軍が入植してきて、家が奪われた人がいること。
急に壁ができたから、親戚に会えなくなった人がいること。
テロリストだと疑われて、殺された人だっていること。
生計を立てていたオリーブ畑が一晩で壊されて、イスラエル領地になったこと。
水や電気が、イスラエルのコントロール下にあること。
だから、水は貴重でタンクでも雨水を貯める必要があること。
なのに、イスラエル軍が暇つぶしにタンクを撃って、穴を開けたりすること。
仕事に行くために、壁の検問所で数時間並ばなきゃいけないこと。
そこで従わないと暴力をふるわれたり、持ち物チェックでは服を脱がされること。
毎日パレスチナの人が、嫌がらせ、非人道的な扱いを受けてること。
それが、世界には知られていないこと。
誰も、世界の誰も、パレスチナを助けてくれないこと。
その話を聞かせてくれたパレスチナの人は、ツアーガイドの人だった。
「僕はパレスチナの状況を知ってほしいから、ツアーガイドになったんだ。」
と、流暢な英語で話してくれた。
今ね、こうやって1人でも多くの人にパレスチナのことを話せて嬉しい。
僕のおばあちゃんとおじいちゃんは、
イスラエル軍に追い出されて難民になったんだ。
僕は難民キャンプで育ったから、
12歳から水を売って家族を支えてきたんだよね。
ずっと、苦しかったんだ。
そう、教えてくれた。
分厚くて高い分離壁が壊され、突破されたこと。
それは、パレスチナ人にとっては、
天井のない牢獄から出られるかもしれない、という希望であり、
やっと手に入るかもしれない自由の象徴なんだ、きっと。
イスラエル側は、”壁をつくったことでテロリスクが軽減した”
”治安のために作った”、と言ってる。
でも、壁を作り続けることが、ある産業には儲けになっているのも事実だ。
今も壁は、横に伸び続けている。
壁をつくって平和になりました、ちゃんちゃん。
ということはまったくなく、
生み出したのは、じわりじわりと時間をかけて煮詰められた、
不自由に対する憎悪だと。
パレスチナの人の言葉の節々に、それが滲み出ていた。
それが今日、爆発したのだ。
命がけのチェックポイント
その日の夜。
同じホテルにたまたま泊まっていた日本人の方がいらっしゃって、
その方と一緒に車に乗って、とチェックポイントまで行った。
このチェックポイントはまだ開いているらしい。
その情報を聞いて、荷物をまとめ、車に飛び乗ったのであった。
チェックポイントに近づいた。厳重警戒態勢だった。
開いているはずのチェックポイントは、閉まっていた。
タッチの差で、数分前に封鎖したようだった。
遠くの暗闇の中に見えたのは、戦車だった。
その前にいるイスラエル軍。
銃をこちらに向けて構えているのが見えた。
「あ、死ぬかも」と本気で思った。
死に方って選べないんだな、とも。
運転手さんだった方は、アラブ系の人で
「ごめん、イスラエル軍が武器を持ってるから、進めない。外に出れない」
と申し訳なさそうに言った。
見た目がアラブ人だと、特に警戒される。
文字通り、命がけである。
外にいる野犬が、馬みたいにデカかった。
外の空気を吸いたい。でも、車の外も出れないし、窓も開けられない。
チェックポイントを通るとき、バンクシーの絵はリュックにちゃんとしまっておくように言われた。
それは、イスラエル側に、パレスチナ擁護派だと思われるかもしれないから。
ああ、バンクシーの絵、買わなきゃよかった。
髪も金髪に染めなきゃよかった。
(目立つし、ハマスには敵だと思われるかもしれないから)
後悔がふつふつと湧いてくる。
イスラエルのSIMを入れていた自分のスマホを、強く握る。
パレスチナ自治区は、実はイスラエルの電波が届きにくい。
ローディングになっているLINEの画面を見つめながら、
お世話になった人に、もっと、ありがとうって言えばよかった。
と、思った。
クリックひとつで決まる、イスラエル脱出戦
そのあと、イスラエルにいるいろんな方と連絡がつき、
無事にチェックポイントを抜けられた。
なんとかイスラエルのエルサレムへ行くことができた。
これは本当に、本当に、ご一緒した日本人の方と、
運転手さんのおかげで、
その方々なしには、私はここにいない。
本当に、いくらお礼をしても足りないくらいの、命の恩人だ。
ひとりだったら、落ち着くまでパレスチナにずっと滞在してたと思う。
1ヶ月とか、それ以上か…。
エルサレムのホテルで一息つき、どっと押し寄せる疲れに負けそうになりながらも、ベッドの上でスマホを開いた。
明日、イスラエルから出国ためのチケットを買い直さなきゃいけないのだ。
もともとイタリアから日本に帰るチケットを持っていたので、
まずはイスラエル発〜イタリア行きの飛行機を取ろうと思ったら、
全部、売り切れていた。何度調べても、ない。
はて?!
ちょっと混乱しつつ、1万円のキプロス行きのチケットがあったので、
一旦キプロス行くか!!1時間で1万円だし!
とそのチケットを取ろうとしたら、
1分の間に、10万円になっていた。
そして、売り切れた。
ん、ちょ、待てよ!?
夜中の1時。
みんなが、同じことを考えていた。
イスラエルから、脱出する。
なにがなんでも、脱出する。
行先を絞らず、とにかく、他の国へ。
チケットが、文字通り飛ぶように売り切れていった。
やばいやばいやばい、まじでどこも逃げられない。
え、また売り切れてる。さっきまであったのに。
こういう時に限って、カードにエラーが出る。
カード番号ミスった、あ、また取り逃した、、、
1秒差で脱出できるかが決まる。
まさに、クリック戦争が起こっていた。
なんとかローマ行きの飛行機が取れたのは、夜中3時だった。
ポッと現れたそのチケットを掴み、眠りについた。
数時間後に外は明るくなり、遠くで爆破音が聞こえた。
一難去って、また一難
お昼前に、空港に着いた。
やった・・・・よかった・・・・
と安堵したのも束の間で。
すべてのフライトがキャンセル・遅延になっていた。
「ON BOARDING」が、ひとつもない。
そして、私の予約した飛行機は、もれなく消えていた。
なにも連絡なしに、マジックのように、ポッと。
チケットカウンターに行けと言われたのでそこへ行くと、行列ができていた。
「Where do you wanna go?」
「ANYWHEHE.」
そんな会話をしたのは、ニュージーランドから来たご夫妻。
どんな大金でも払うわ!ここ以外の国に行けるんだったら!
と笑いながら言っていた。
行き場を失った人たちでごった返す空港。
怒鳴るひと、泣きだしそうなひと、諦めたひと。
みんなスマホを見てチケットを見てるけど、
結局買ってもキャンセルになってしまうから、
みんなカウンターで「チケットをくれ!」と詰め寄った。
「ギリシャ行き、1人!」
カウンターの人が叫ぶ。
ほしい、ほしい、と全員が手をあげる。
「フェスみたいな光景だ」とイタリア人が笑って、その場が少し和んだ。
「みんな欲しいに決まってるだろ!」「落ち着こうぜ!」と、パニック状態の私たちをなだめる。
彼の腕の中には、小さな赤ちゃんが眠っていた。
結局、一番前に並んでいたおじちゃんが、その場でクレカを切って
チケットを受け取って、列から外れた。
チケットをにぎりしめて
バンコク行きの飛行機のラスト1席を取れたのは、夕方だった。
カウンターで並びつつ、スマホとにらめっこして、チケットを取った。
でも、カードの支払いまでいろいろ記入しているその1分の間に、
値段が、45万円に跳ね上がっていた。
表示されてた値段とまっったく違うじゃん!!
でもこれを逃したら、空港生活が始まるかもしれないし、
空港だって襲われるかもしれない。
ポチッとした。泣きそうになった。
よし、帰れる。あとは、キャンセルされないように願うだけ。
ありえないくらい厳しい荷物チェックを経て、
待合スペースでスマホをチャージしていたら、
横に座っていたイスラエル人の方と仲良くなった。
彼はなんと、10年前にイスラエル軍として、
ガザ地区に行ったことがある人だった。
(イスラエルでは、男女両方、18歳になると3年の兵役義務がある)
「忘れられないよ、ガザで銃を向けられたこと。トラウマだ」
「もう、この国には戻れない」
途中で話しながら、彼は泣き出してしまった。
彼の手に自分の手を重ねることしか、私にはできなかった。
昔の記憶も、すべてを、忘れにいくんだ。
と、ジョージアに行くチケットを右手に、
切なそうに言う彼の顔を、私は忘れられない。
今も、戦地に向かうイスラエル軍の人がいると思うと心が痛む。
「君と話せてよかった。この国から逃げるなんてこと、イスラエルの人には言えないから。いい旅の始まりになったよ」
最後は、笑顔になった。名前を教えてくれた。
写真を撮ろうと言ってくれた。
ヒストリーは、ひとりひとりのストーリーで、できている
バンコクに着いてから、パレスチナ問題の歴史をもう一度知らなきゃと思って、この記事を読んでいた。
イスラエルの人、そしてパレスチナの人。
どちらにも出会ったことで、少しではあるのだけれど、それぞれの悲劇に触れた。
私はこの旅で「会話をしに行った」と言っても過言ではない。
美しい景色より、ひとりひとりとの会話が、心に残っている。
空港で会ったイスラエル人の彼(ユダヤ人)が話してくれた中で、印象的だった言葉がある。
「We have HISTORY」
という言葉だった。
力強かった。
生きつないできた民族の歴史に、
信じている宗教の歴史に、
誇りを持っていた。
イスラエル・ユダヤ人のヒストリー(歴史)を話してくれるうちに、
彼の話の内容は、個別のストーリー(物語)になっていった。
これは、パレスチナの人が歴史を教えてくれた時も、一緒だった。
最後は、自分の経験や、憤りや虚しさという個人の感情に、着地していく。
歴史は、事実ではない。
教科書に載っていることも、ある一点から見た解釈でしかない。
事実はなく、ただそこに、n=1の真実がある。
怒りとか、悲しさとか、願いとか、
そういう見えない1人1人の真実が、歴史そのものなんだと思った。
そして、もうひとつ、気づいたこと。
闘う正義は、誰かを守るための「愛」なんかじゃない。
そんな、綺麗なものではない。
誰かを失った「痛み」から生まれるものなんだ。
ということ。
バンコクの空港で、そんなことを考えながら、
ひとりで泣きながらパッタイを食べた。
自分に泣く資格なんてさらさらないのだけれど、
あたたかいごはんを食べているという安堵と、
平和というものがあまりにも脆くて、
正義というものがあまりにも悲しいものなんだと
思っていたら、涙がボロボロ出てきた。
その後、空港の椅子で、ニュースを見たり、
あごのニキビをつぶしたりしてボーッとしてたら7時間経っていた。
日本に無事帰国できたけれど、正直、心が追いついていない。
旅先で出会ったバックパッカーの人は、
チケットが取れず、まだ空港を出られていない。
1泊泊めてくれたキブツのご家族は、今シェルターにいるのかな。
私を同じ車に乗せてくださった恩人のご家族はテルアビブに住んでいて、
連日サイレンが鳴っていると聞いた。不安だ。
どうか、どうか、
イスラエル・パレスチナにいらっしゃる方が、
無事でありますように。
日本から、祈ることしかできないけれど。
イスラエルの人、パレスチナの人と話したこと、
私が感じたことを、
今は、文字にすることしかできないけれど。
ここに思ったことを、置かせてください。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。