Gutto NEET Note 10
グットニート全8回の講座を受け終えた。
受け終えて終えばあっという間だったように思う。
正直、飽きずに最後まで受け続けられるかどうかよりも、生計的な意味でいつまで東京に居続けられて、かつ、この講座を最後まで受け切れるのかという問題の方が実際問題やばかったのだが、一応なんとかなったのでこうして感想を書けている。受講料も無事納めた。
グットニートとは何なのかもよく分からないまま、半分はノリ、半分はマジでグットニートになりたいと思って7月から受講し始めてはや3ヶ月。グットニートであるとは、こういうことなんじゃないか、ああいうことなんじゃないかと苦悶して考え続けた3ヶ月間も、いよいよ終わり。
そしてグットニート養成講座の締めくくりは、成果発表会。
私がこれまで講座で学んできたこと・考えてきたことの集大成を発表した。
その時に使用したスライドをここに公開しよう。
以下、成果発表会の日を迎えるまでに考えてきたことをつらつら綴ることを通して、私にとってグットニート養成講座とは何だったのかを述べていきたい。
総評
端的に言ってしまおう。
グットニート養成講座はどちらかというと、講師の講義一つ一つを自己自身を見つめるきっかけ、自分の生き方を振り返り、見直すきっかけにできたかどうか、これが試されていたと言っていい。
もっと端的に言うと、「人生の壁打ち」なのだ。私はそれぞれの講師やメンターの皆さんに自分の人生を壁打ちしてもらうつもりで、グットニート養成講座を活用してきた。
特定の困りごとやプロジェクトについての悩みということで言えば、相談・壁打ちしてくれる人や相談機関は、いくらでもある。
だが、根底にある自分の生き方そのものに関してまで壁打ちしてくれる存在は、なかなかない。
グットニートとして「自分はどう愛されたいか」を深く探求することは、結果的には自分の生き方を見直し、人生観が変わる体験でもあった。だからこそ、グットニート養成講座は壮大な「人生の壁打ち」であり、強烈な「インド体験」なのだ。
逆に言えば、通常の意味での、主に職業訓練やスキルアップを目的とするような「養成講座」で得られるような、例えば役立つ知識が豊富に得られた、だとか、明日から食っていける技術が身についた、だとか言った類の講座ではないかもしれない。それは、これまでのGutto NEET Noteを読んでいただければお分かりになることだと思う。少なくとも私に関して言えば、新しい知識が身についたとか、仕事につながるスキルが身についたとか、そういうことはあまりなかった。そういう意味では、大して参考にならない。
大して参考にならないからこそ、逆に自分にとって「グットニート」であるためにクリアすべき本当の課題は何なのか、自ら意識して探し、課題設定して、自分で考えなければならなかった。
こうなることは、実を言うと受ける前から薄々分かっていたことだった。
だからこそ、私はGutto NEET Noteをまとめていたのだ。
ただ講座を消費して、「受けてみたけど、役に立たなかった」「つまらなかった」「あまり参考にならなかった」で終わりにしたくなかった。そうボヤくのは簡単だけど、それではただの金の無駄遣いである。
何か、得るものがあるのではないか。
考えてみる価値のある自己自身の課題が見つかるのではないか。
常に、そう考えていた。
考えながら受講していた。
なぜか。
最後まで受け切ってみて思う。グットニート養成講座で磨かれたのは、資格勉強だったり小手先のスキル以前の「一人の人間として愛され、生きていく」ための力だった、と。
したがって、グットニート養成講座は、グットニートになるための知識を得る場であるというよりは、講師それぞれの言葉やその背景となる人生と真向かいになって対話をする場だったと言える。
平たくいうと、自分自身を見つめるいいきっかけにはなった、ということだ。
まとめ:グットニート養成講座は、自分を見つめて自己対話するきっかけとして利用しよう!
受講にあたって常に心がけてきたこと
グットニート養成講座の参加者には専用のNotionページが振り返り用として割り当てられるのだが、その振り返りの際に必ず書いていたことがある。
自分だったらどう考えるか
自分にそれをやれる素質は元からあるのか
逆に素質がない部分・努力で補うしかない部分はあるのか
努力で補える部分をこれからどう補ったり問題解決したりしていくのか
Gutto NEET Noteは主に「自分だったらどう考えるか」をまとめた記録になる。
まとめる過程で、講師の言っていたことを一言一句振り返るいい機会になるし、同時に講師の言っていたことをどのように受け止めるのかを考える機会にもなる。何より、自分自身のことをよく掘り下げられるのは他でもなく自分自身なのだから、講師の言っていたことを受けて自分はどうだったか、これからどうするのがいいのか、自己対話をするきっかけになった。Gutto NEET Noteはまさに、グットニート養成講座を受けた私がどのようにして講座一つ一つから自己対話を深めていったのかの克明な記録になる。
加えて、「自分の素質・才能が発揮できる部分/そうでない部分」を箇条書きでリストアップして考えた。そうすることで、自分が既に出来ていること・今は出来ていないけどやれば出来そうなこと・全く出来そうな見込みがないことを再確認することにもなり、自分にとっての課題が何なのかを明確化することができた。これは、8回の講座全部に対してやった。やり終えてみると、自分自身を俯瞰的にみることができるようになった(気にはなれた)し、今回のグットニート養成講座が果たして本当に自分のためになったかどうか、客観的に評価しやすくなった。
最後に、努力目標を立てた。講座を受けて自分に何ができるのかを箇条書きで書き出すことによって、自分が今後どう生きていきたいのか、そのためにやるべきことは何なのかを真剣に考えた。
このようにして、私は一つ一つの講座に対して、真面目に、真剣に、講師一人一人に対して誠意を持って、何より自分自身に対して正直であろうと心がけて、講座に臨んできた。なるべく遅刻せず、勤勉にプログラムをこなし、Gutto NEET Noteとしてまとめてきた感想は全てモテアマスのファッション住民LINEで公開してきた。
正直、そうした受講態度が正解だったかどうかは、私には分からない。人から褒められることもあるかもしれないが、一方でグットニート養成講座が持つ独特のゆるい雰囲気をぶち壊してきたかもしれず、講師によっては堅い態度と煙たがられていたのではないかと若干不安になる。
何より、このような真面目な態度を貫こうとすればするほど、自分で自分をつまらなくしている感覚に襲われることもしばしばあった。その感覚が災いして、面白いコメントをしていい時にうまく頓知が効かないこともあって、もどかしい思いをしたものだ。グットニート養成講座で何が一番大変だったかと聞かれたら、そう答えるし、それは他ならない私自身が抱えるジレンマであり、課題でもあった。
確かに、私の受講態度はどちらかといえば真面目な方かもしれないが、決して見習わなくてよくて、実際にはもう少しゆとりや遊び感覚、ノリを大事にして受講するとおそらくもっと楽しめる。
真面目さと言っても、せめて、毎回遅刻せず参加する、くらいの真面目さでいい。Gutto NEET Noteのようなレポを交えた詳細な記録を書こうとしなくていい(自分でもやりすぎだと思っている)。でも、振り返りは自分なりに丁寧にしっかり残しておくといい。グットニート養成講座で磨いた努力は、今すぐに役に立つことがなかったとしても、追い追い人生の至る所でじわじわと助けてくれるだろうから。
まとめ:
真面目な中にも、余裕と遊びを持ちながら受講すると吉!
振り返りは丁寧に! 自分と向き合ってきた大事な記録!
受講したことで見えてきた自分自身の課題
さて、以上のことも踏まえて、講師の皆さんに私の人生の壮大な壁打ちに付き合ってもらった結果、見えてきた課題について述べていこうと思う。
成果発表会で使用したスライドに要所ごとに解説を加える形で、述べていきたい。
内に抱える寂しさから叩いたグットニートの門
私という人間は、知っている人は知っての通り、非常に多動で、色んなクリエイティブな表現にチャレンジしようと試みてきた人間だ。やってきたことの大半はポートフォリオとして以下のマガジンにまとめてある。
そして、いくつかは満足のいく結果を出せたものもあったが、その多くは「やってみたけれど『大変だった』だけに終わって、次に活かすことが難しかった」ものたちばかりだった。お金を稼いで、生計の糧にしていけるような仕事になかなかならなかったのである。
そして、今振り返ってみると私の多動の原動力は、単純に「寂しさ」にあった。要するに、「愛されることに飢えていた」のである。とりわけ20代の時期にやっていた、憧れのアーティストの真似をして楽器を自作してみたりだとか、メディアアートの真似事をしてみたりだとか、そういう時期の作品には顕著に表れている。30代になって、人に料理を振る舞ってみたり、畑を耕してみたり、ということもしてみたが、どれもが、結局は「愛されたい」「モテたい」「寂しさを埋めたい」がコアな原動力になっていた。だからこそ、多動でい続けられたのだと思う。
しかしそうでありながら、私は何か自分のプロジェクトをやろうとする時にはほとんどの場合、仲間を募らなかった、というか、自分でやってしまう方が早いので仲間はいらない、とすら思っていた。実際、自分一人でもある程度のところまでは器用に出来てしまう。
だが、ある一定以上のクオリティを出そうとしたり、人様に提供する最低限の基準を満たそうとしたりする段になると、途端に難しくなってしまう。何より、自分が寂しさから抜け出すためには、必ず自分以外の他者を巻き込む必要があることは、やりながら痛いほど感じていた。なのに、いつだって、その一歩が踏み出せなかった。それが、私の勇気のなさからくるものなのか、何なのかは、未だ自分でもよく全容を明らかにし切っていない。私の人生の中で起こったさまざまな体験からくる複合的なコンプレックスが、私を苛んでいるのは確かだと思う。だが、それらのコンプレックスを一つ一つ片付けて、向き合ったとしてもなお、私は「どうすれば人から愛されるのか」において根本的に迷子だったのである。
私がグットニート養成講座を受講した動機は、「寂しさ」からだった。
「フェスを作りたい」と思って上京してきたものの、東京での人脈はほとんど数えるくらいしかなくて、一人アパートで暮らす生活は、希望や夢もあるが、寂しさや不安、後ろめたさだって、やはりある。私の「フェスを作りたい」という、自分のやりたいことを自己実現させるためには、どの道誰かの協力や、誰かからの愛ある支援が必要だ。なのに、誰から巻き込んでいいかもわからなければ、そもそも誰が自分なんぞに振り向いてもらえるものかと、自信すら持てていなかった。
そんな自分を見つめ直し、変わっていくきっかけがグットニート養成講座で得られるかもしれないと思って、門を叩いた。
働きたくないけどクリエイティブなことをしてモテたい
グットニート養成講座を受講した理由を端的に言うとしたら、「働きたくないけどクリエイティブなことをしてモテたい」という言葉に集約される。
「働きたくない」には、私の場合色んな意味がある。
単純に性分として怠惰である、ということもあるが、私の場合大きな要因として「働いてみたけど、傷ついてきたことが多過ぎて、もう疲れた」ということがある。要因は主に、上司からのパワハラ・モラハラ・セクハラだった。
これは私が最初に就職らしい就職をした電気工事屋で実際にあったことだが、ある時私が上司の言うことに納得がいかないことがあり、詳しくは覚えていないが何かしらのコメントを返した時に、向こうは文句を言われたと認知した腹いせなのか何なのか「男らしくない」と一蹴したことがあった。私が職場で初めて受けたセクハラだった。
僧侶時代には、それはもう凄まじいパワハラ・モラハラ・セクハラの嵐の中で働いていた。「お坊さん=人格者」と思っている人がほとんどだろうから、内部で渦巻くハラスメントの凄まじさはなかなか信じてもらいにくいかもしれないが、それはもう凄まじい差別、暴力、虐待が起きている現場がお寺という空間だったりする。人格否定は当たり前、人のプライベートに口出しされるのは当たり前、人のパートナーシップやセクシュアリティといったデリケートなことにまでズケズケとケチをつけられるのだって当然のように横行する。しかも、それらの暴力が「教え」を引き合いに出して、「教え」の名の下に下されるのだから余計にタチが悪い。加えて、厳然とした縦型の身分序列があり、年功序列があり、ジェンダー序列があって、暴力や差別を再生産する非常に根が深い構造まである。
実際にあったことをいくつか挙げてみよう。
檀家さんに会うたびに「結婚はまだですか?」とマイクロアグレッションされる
修行道場では男子寮に入れられたので、男子だけの空間特有のホモネタが飛び交い、トランスジェンダーであることをカミングアウトしづらい環境だった
先輩僧侶からのイジメ。とりわけ、教えの言葉を引き合いに出して以下のような旨の、人格否定の混じった上から目線の説教を聞かされる。
「僧侶としての態度がなっていない」
「生き方が間違っている」
「自分を無くせ」
「お前の仕事に金を払う価値などない」
私のセクシュアリティのことに触れて、「気持ち悪い」「治したほうがいいぞ」と言ってくる
こういうことが毎日のように沢山積み重なった結果、私は心を病んだ。ある日突然布団から起き上がれなくなって、法務が手につかなくなってしまったのだ。
30代に突入して、寺を追い出されたこともあってか、深刻なハラスメントからはようやく解放された。ハラスメントで心に深い傷を負って、心を病んだ私を救ってくれたのは、精神障害者手帳と福祉就労だった。発達系であれ躁鬱であれ「障害を抱えている」と言えば、ある程度周りは理解を示そうとデリケートに扱ってくれた。B型作業所の限りなく心理的安全性が確保された環境と単純だが目に見える成果のある労働は、私に働くことに対する自信を取り戻してくれた。
本来なら誰もが、互いに相手を理解しようとする配慮や気遣い、思いやりを持って接することを必要としているはずなのに、そうした配慮を社会から合理的な形で私が得るためには、皮肉なことに一度心が壊れて心療内科に通うということが必要だったようだ。そのことが、私をして「一般就労」という枠組みに対する疎外感や不信感、そして「働く」ということそのものへの疑問を抱かせるようになっていった。
私は、言葉の形であれ態度の形であれ、暴力を感じると身体や脳がフリーズして、無抵抗状態、やられっぱなし状態になってしまう。だから、一人で抱え込んでしまうことも多く、しかも希死念慮や突発的なパニック、極度のうつ状態として時間が経ってから長期に亘って現れることもあり、とても生きづらい人生だった。傷つくことや極度にストレスを感じることが多い労働現場では、私は耐えられない。
だから、出来るだけ「働かなくていい状態」に身を置けるならそうした方がいいのだと思っている。私が出来る限りニートでいたい理由である。
その一方で、クリエイティブなことをしている間だけは、楽しく過ごせるし、時間を忘れて没頭することだってできる。
小説を書いたり、ブックレビューを書いたり、DTMをしてみたり、電子工作をしたり、自炊で凝った料理を作ってみたり……このnoteを書いている時間だって、そういう時間の一つだ。
基本的には、こうした作業のほとんどは、黙々と一人で作業していることの方が多い。だから、一人で何とかなってしまうスキルが身についてしまったというのもあり、その意味でも孤独な作業だと言えるが、日常の中で大事な癒しになっているということもまた真実なのだ。
出来れば、働きたくない。
でも、自分の生きる活力となってきた「ものづくり」は、やり続けたい。
あわよくば、クリエイティブな自分を誰かに愛してほしい。
モテアマス三軒茶屋というシェアハウスと、そこにいる人たちのクリエイティブなコミュニティは、そういう意味では魅力的な場所であり、私にとっては夢見たものが目の前に具現化したかのような素敵な環境だった。
グループLINEを見ていると、ほとんど毎日のように、何かが発生し、何か面白おかしなことが生まれ、ユーモアあふれる告知の画像が流れ、イベントやパーティが突発的に発生する。とてもクリエイティブで、ユーモアあふれる場所に、私の目には映った。
そのような環境の中に暮らしているモテアマスの住民たちだからこそ、という信頼感があった。
この人たちなら、私がどうなったら人から愛される人間になるのか、教えてくれるのかもしれない、と。
私がワンチャンモテるようになる方法を、何か知っているかもしれない、と。
受講してみて見えてきた本当の課題
ところが、私が全ての講座を受講し終えた時に感じたことは、
「これまで悩みだと思ってきたことは、実は悩みでも何でもない」
ということだった。
寂しさゆえとはいえ、多動でコミュニティホッピングを繰り返してきたことは、ほとんどそのまま肯定的に捉えられるし、何なら私鹿音のんXが生き抜いてきた証だということを、胸を張って言えるようになった。
それは、2回目の講師のかずひろ君のおかげだ。
「仲間がいない」ことも、必要なければ無理に仲間を作ろうとしなくていいだけのことであり、実は本質的な悩みではない。
むしろ、私が知るべきだったのは、プロジェクトのコアメンバーをどう集めるかとかいうこと以前に、人とまずは友達になること、関係を維持すること、そして、貸し借りを作りながらGiveしたりGiveされたりする関係性にしていくやり方の方だった。その辺の話は、カズキタさんが「友達経済圏」という言葉で詳しく語ってくれた。
(Gutto NEET Note 00)
「クリエイティブなことが仕事にならなかった」という悩みも、別にすぐに稼げる仕事になってこなかっただけ。そもそも、クリエイティブを仕事にしようと就活したり、フリーランスとして仕事を取ってきたりすればクリアは難しくない課題だったりもする。
むしろ、私が知るべきだったのは、クリエイティブを仕事とするかそうじゃないか以前に、自分の働き方の姿勢を見直す必要がある、ということだった。るかさんの「愛されしごと術」は、デザイナーとしてクリエイティブを仕事にしてきた経験のある人として、自分の働き方を見直すためのヒントを含蓄深く語ってくれた。
(Gutto NEET Note 05)
これらの講師の講義を受けて自己対話を重ねながら見えてきたこと、それは、そもそも私が「寂しい」と感じてしまうようになる、その根本的な原因の方だった。
なぜ、私は寂しくなってしまうのか。
一人ぼっちだから?
パートナーがいないから?
自分のことを愛してくれるファンがいないから?
そうではない、と思う。
少なくとも、創作に没頭できる時間を始め、私はある空間の中にたった一人でいる状態であっても満たされる術を色々豊富に持っている。むしろ、孤独を感じるのは、誰か他人といて味わう孤独の方が大半のウェイトを占めている。
それに、モテアマスでスパイスカレーを作ったり、何かしら豊富な話題を提供できる場面になると、私はそれなりにモテる。一時的な出会いかもしれないし、長く続くということがないかもしれないけれど、ある程度まではモテる能力が自分にはあることも、講座を受講して発見したことだった。
じゃあ一体、寂しさの正体は何だったのか?
正体をはっきり感じられるようになったのは、第8回目のぼりさんの講義を通して、だった。
すなわち、エゴイズムである。
本当の課題=エゴイズム
私の寂しさの正体は、結局のところ「満たされないエゴイズムを抱え続ける」ことにあった。
エゴイズムが寂しさの正体であり、潜在的にある私自身の根本的な課題だと気づくことができた過程は、Gutto NEET Noteのぼりさん回のまとめのところで詳しく書いた。
エゴイズムは「〜してあげる」という形をとって現れることが多い。
相手に尽くしたい、自分の気持ちを受け取って欲しい、自分を分かって欲しい……そういう情念を誰しもが、誰かに対して常に抱えている。
そして、〜して「あげたい」と思うこと、そう思うことに端を発する行為の全てに関して、必ずどこかには独りよがりな、Taker的な感情が渦巻いている。なぜなら、「〜してあげたい」には必ずセットで「〜してあげたのに、受け取ってもらえないのは嫌だ」という恐れがあり、「〜してあげた自分は正しい」という自己正当化バイアスさえかかってしまっているからだ。
だから、簡単に言うと、エゴイズムとは、「Giveの顔をしたTake」という形で私たちに牙を向く性質の、様々な情念の集合体のことを指す。
エゴイズムは一人で居ることにそれなりに満足している時には出てこない。別の言い方をすれば、エゴイズムは必ず他者との関係性の中で生まれる他ない情念なのだ。
また、エゴイズムは別名「条件付きのGive」「リターンありきのGive」と言い換えることもできる。なぜなら、「〜してあげたい」には、これまたセットで「⚪︎⚪︎してあげるのだから、当然××してくれるよね」という期待だったり、「⚪︎⚪︎してあげる、ただし××してくれるなら」という打算だったりが潜んでもいるからだ。要するに、見返りを期待してしまう心である。
ちなみに、見返りを期待する心は私たちの日常の中では非常にありふれた形で、そしてしばしば「〜してあげる」という言葉ではない暗黙の形で現れることが多い。なぜなら、大抵の人にとって見返りを期待することは自然なこととして身体に染みついてしまっているから、わざわざ「〜してあげるよ」と言葉にしなくたって、常に既に他者に向けてやることなすこと全てに関して見返りを期待し、時には要求しさえしてしまうからだ。
だからこそエゴイズムは、それ自身が持つ毒に自覚的になり、意識を向けて注意しなければ、いとも簡単に自分の身から溢れ出てしまう。コントロールは非常に難しく、たとえ深い瞑想状態に至れるようになるまでに情念をコントロール出来るよう訓練を積んだ人であっても、完全にエゴイズムから解放されるということは基本的にあり得ない。
「寂しさ」は大抵の場合、他者との関係において「満足な見返りが得られていない」「自分は報われていない」と感じることにより生じるものだ。
例えば、「なかなかモテなくて一人ぼっちで寂しい」人は、実はエゴイズムの視点から分析すると「自分はもっとモテて然るべきだ」「なのに、誰も自分に振り向いてくれない」という情念が渦巻いていることになる。
自分はもっとモテて当然のはずなのに、モテなくて苦しんでいる。
こんなのあり得ない。
認めたくない。
これが本音なのである。
しかし、どうだろうか。「私はもっとモテて当然だ!」とストレートに表現する人に対しては、分かりやすいなと思う一方で、これまた大抵の人は図々しさ、心の闇、毒を感じるはずだ。少なくとも、「そう思ってるからお前はモテへんのやぞ!」と突っ込みたくなるのが人情というものだ。それよりは、「なかなかモテないし、寂しい人間なんすよ〜」くらいの方が、図々しさがなく、棘が出ない。棘が出ないが、言っていることは同じことなのである。
「他人をダシにして自分を満たそうとする心」がTakerの本質なのだとしたら、「Giveしたつもりなのに満足な見返りが得られなくて寂しい」とボヤくこともまた、他人をダシにして自分を満たしたい欲求の様々なバリエーションの一つでしかない。「モテない」という言葉一つとっても、そこに寂しさがあるようであれば、どこかにエゴイズムの毒がないかどうか、自分で点検できるといい。
ちなみに、「他人をダシにして自分を満たそうとする」Taker的情念は「モテたい」の他に次のようなパターンもあるから、こういう欲求を潜在的に持っていると感じるようなら、その情念そのものが自己実現を妨げている可能性もある旨、注意を促しておきたい。
チヤホヤされたい
褒められたい
抱かれたい
売れたい・有名になりたい・ビッグになりたい
勝負で勝ちたい
儲けたい
慰めてほしい
癒してほしい
憧れの〇〇さんのようになりたい
〇〇さんに気に入られたい
〇〇さんに(性的に)好かれたい
とはいえ、エゴイズムを動機にした行為全てが直ちに人から嫌われる要因になるわけではない。ある種の「向上心」として、自分を磨いたり、自分の持っているスキルを拡張してくれたりする、心強い味方だったりもする。
問題なのは、エゴイズムが十分に満たされなかった時に「これだけやっているのに」という形で毒となって自分の心身だけでなく他人の心身も蝕むようになるということである。
更に問題なのは、ある程度のところまでエゴイズムが満たされると、満たされたことに満足して、それはそれで「他人が見えなくなる」現象が起こる、他者への配慮が欠けてしまうようになることである。
これ以上詳しく述べる余裕はないので、考えてみたい人はエゴイズムがある程度満たされてしまうと、なぜ「他者が見えなくなって」しまうのか、考えてみていただきたい。
クリエイティブなことをして「あげよう」とする問題
ここで、受講理由を改めて振り返ってみたい。
私のグットニート養成講座の受講理由は「働きたくないけどクリエイティブなことをしてモテたい」だった。
ところが、グットニート養成講座を受講して見えてきたのは、そもそもクリエイティブなことをわざわざしなくても、モテる方法はいくらでもある、ということだった。
そのことを考えさせてくれたのは、他ならないナツキムラタさんだった。
今思えば、「偽善」「Giveの顔をしたTake」という表現で、第8回を待たずして既に私はなっちゃんさんにエゴイズムの問題に取り組むように促されていた気がする。
わざわざクリエイティブであろうとしなくてもモテるとは、どういうことか。
例えば、見た目の清潔感を保つ、これだけでもモテる。体臭に気を遣う、服はなるべく清潔に保っておく、歯は毎日磨いて口臭ケアすると同時に歯科医にも通って定期的に検診を受ける、食生活を見直す、部屋を定期的に掃除して体に染みつく嫌な臭いを抑える……見た目の清潔感をしっかり保つためには、必ず自分の生活を整えなければならない。自分の生活が毎日しっかり整っている人は、自然と他人からも好印象を与えることができるようになるのだ。
例えば、モテアマスに来てキッチンに洗い物が残っていたら洗って、拭いて、戻す。これだけの単純なことをずっと続けていくだけでも、モテる。不思議なことに、こういう「ちょっとしたこと」の積み重ねに関しては、基本的にエゴイズムが差し挟まる余地は無い。皿洗い一回程度で、莫大な富や名誉やはたまたハーレムが約束されるなどということは、誰も期待しない。むしろ、生活していく中で一番誰もが嫌がることだ。けれども、生活を回していく上では大事なこと。こういう、人が嫌がってやりたがらないけど大事なことを率先して担うのも、モテる秘訣であると言っていい。
例えば、相手の好きなものと嫌いなものを把握して、好きなものは料理として振る舞ってみる。これも、「胃袋から相手の心を掴む」という意味では大事なモテ作戦の一つだ。たとえ好きなものを明確に把握できなくても、誰もが好きそうな定番料理だったら、振る舞ってみるのもありだ。例えば、カレーライス、唐揚げ、パスタ、豚汁、ケーキくらいだったら、好き嫌いはそんなに分かれない。辛い料理やコーヒーとかだと、食べられない・飲めない人が出てきやすくなり、パクチーを使った料理やお漬物とかだと、完全に好みが分かれる。何も、凝った創作料理を何時間もかけて振る舞う、などと言ったクリエイティビティを発揮しなくてもいい。シンプルな料理で、さっと出せて、みんなが喜ぶものを提供できればそれで十分なのだ。
もし、そうした「いい人ブランディングポイント」が見つからない場合でも、誰かに協力してもらって100の質問を考えてもらい、それに答えていく中で自分のちょっとしたブランディングポイントを見つける方法もある。これは、ぞのさんが講義でやってくれた。
(Gutto NEET Note 04)
こうした、モテ、という面ではちょっとしたことかもしれないが、積み重ねていくうちにモテにつながっていくことは沢山あることをグットニート養成講座で学んだ。そうなると、結局のところ「クリエイティブなことをしてモテたい」という欲求に対しては、そもそもなぜ「わざわざクリエイティブなことをする必要があるの?」という問いにぶち当たることになる。
そして内省を深めていった結果、クリエイティブでモテたいという欲求そのものが、私の場合エゴイズムそのものでしかないことが判明したのである。要するに、クリエイティブなことを「してあげようと」してしまう自分がそこにいたのである。
エゴイズムとどう向き合うか
クリエイティブであろうとすることは、確かに楽しい。
誰もが認める素敵なことだし、クリエイティブなことを真っ直ぐにやっている人はどこか、カッコいい。
だから、きっとプライベートでもパブリックでもモテにモテているに違いない。
米津玄師とか、星野源とか、絶対モテてるだろう。
そう思って、生きてきた。というか、そう単純に思い込み続けてきた。
だが、実際にクリエイティブなことをやり始めてみると、これが大変に孤独な作業の連続であることに気づく。
誰か、見てほしい。
誰か、認めてほしい。
誰か、チヤホヤしてほしい。
そうでもないと、費やした労力が報われない。
そう感じることが多かった。
寂しさを抱えながら、「なんでこんなことを始めてしまったんだろう」と自分で自分を呪う日だってあった。
でも、必ずやり切る、と思ってやりきってきたことがあり、仕事にはならなかったかもしれないが、人生の糧にはなってきた。
私の場合、30代を超えて、ようやっと、自分のエゴイズムと向き合う準備が出来てきた。
もう、やりたいことはある程度やってみて、チャレンジしたい表現はある程度チャレンジしてみて、そろそろ自分のなすべきこと、やり続けられることを一つか二つか、片手で数えられるくらいに絞ってみてはどうか、という頃合いになってきているようにも感じる。そうでないと、体力が持たないし、自分の出したい一定のクオリティを出す約束がだんだんできなくなってきている。
エゴイズムと向き合うことを通して、エゴイズムを超えて、自分が何を作りたいのか、何を作品として世に問いたいのか、見つめ直す時がやってきているのだと思う。
まずは、自己受容、そして自己開示からである。
このテーマを深く考えるきっかけになったのは、思えばげんとぉ〜さんの講義であった。
「のんさんにとって『愛』ってなんですか?」
今なら、げんとぉ〜さんの問いに答えられる。
見返りを求めることなく、自分の持っている豊かさを惜しみなく与えられること。
それが、私なりの答えである。
だが、私を含め大概の人にとって、見返りを求めないで何かをすることも難しければ、自分の持っている豊かさをケチらずに与え続けるというのも難しいことだ。何か思い通りにいかないことがあれば「せっかくやってあげたのに!」と愚痴りたくなるし、日常の中で自分の豊かさを人に分け与えようという気になることはなかなかないものだ。
だからこそ、まずは人に対してではなく、他ならない自分に対して、自分の積み重ねてきた豊かさを絶えず与えられるようにすればいいのだ。人のためより先に、まずは自分自身のためと思って、何かをやってみる。自分自身に対して愛情を向けてみる。自分が満たされるための努力をする。その積み重ねの中で、自分はどう愛されたいのか、何をしたら自分は満たされるのかの解像度を上げていくことが重要なのである。
そうして、自己を受容する練習を積んでいった先に、初めて自己開示も可能になる。
「あなたにとって『愛』ってなんですか?」
こう聞かれてすぐに答えられる人は、何か適当な嘘をついているのでもなければ、自己受容体験をしっかり積み重ねてこれた人だけだと思う。自分はどう愛されたいのかの解像度が高い人は、自ずと「こうしてほしい」という表現でなくても自分が愛されるために必要なことを率先して行動できるし、言葉にして伝えることも卒なくできるだろう。
そして、自己受容・自己開示と並んで重要なのが、常に余白を意識すること、余白を常に自分の中に確保しておくことである。
余白には、大きく三つの意味が込められている。一つは、余裕である。
何事も、余裕がなければ人に何かを与えるどころか、人と関わるのさえしんどくなってしまう。いつも余裕がなく、忙しく立ち振る舞っている人に対しては、人は声を掛けづらいものである。その点、るかさんの講義でも「余裕がすべて」であることは語られているし、「えらい人の時間を多くとらない」(というより取れない)にもつながってくる。
二つ目は、デザインとしての余白である。
要するに、何も足さない、何も書き加えない空間を用意しておくこと、一つの空間に全てを詰め込みすぎないことである。私のこのnoteも既に1万字を超えているのだが、その時点でもはや詰め込みすぎなのである。読むので忙しくなってしまうし、何より詰め込まれすぎるとそれだけ消化に時間がかかってしまうからである。一記事せいぜい3,000字以下に収まれば十分だ。
三つ目は、余裕と似ているが人との関わりしろである。
どんな人間関係であれ、自分一人でなんでも完璧にこなそうとすればするほど、「あの人は何でもやっちゃうから、手伝いようがないよね」となって、それだけで離れていってしまう。どこかで手伝えるポイントを作っておく、どこかで誰でも貢献できるポイントをあえて用意しておくと、他者が関わりやすくなるし、自分自身の余裕にもつながるのだ。
エゴイズムを越えるために
自己受容・自己開示が十分に出来ていること、常に自分の中に余白を用意できるようになっていることによって、はじめてエゴイズムを超えて純粋なGiveを他者に向けて与える準備ができるようになる。
ここでは、限りなく純粋なGiveを自分から引き出すためのマインドセットを三つ紹介しよう。
一つは、「適度に満たされておく」だ。いきなり誰かを満たそうとする前に、まずは自分が満たされることを意識して、その余力で他者も満たされるようならラッキー、というくらいの気持ちで行動してみるのだ。
この「適度に満たされておく」極意は、一人飲みを教えてくれた上野くんから学んだ。
上野くん自身、まずは「友達がなかなか出来ない、どうしよう」となっている自分自身を満たすために飲み屋街に足を運び出した。そして、足繁く通う過程で、自分流の飲み方を発見し、Giveの精神を身につけた。
上野くんは最初から飲み屋で人との出会いで満たされていたわけではなかったと思う。
旨い飯と、旨い酒。
最初に彼を満たしたのはそれだったように、一人飲みを実践した今では思う。旨い飯と旨い酒で十分満たされるようになった上野くんに訪れた余白が、飲み屋での店主・お客さんとのコミュニケーションや常連になるための駆け引きを楽しむ余裕を作り出したのであって、逆ではないように思う。結局のところ、「適度に満たされておく」手っ取り早い方法は、とにかく「美味しいご飯を食べる」、それに尽きると言ってもいい。それくらい、自分が満たされる基準、ハードルをいかに下げられるかが、エゴイズムと向き合う上では大事なことになってくる。
二つ目は、「やりたい」で動く、だ。「してあげる」で動かず、純粋な「やりたい」で動く。
これは、グットニート養成講座の講師からではなく、モテアマスに行った時やRingNe含め色々お世話になりまくっている親友のかとちゃん(よろず屋加藤業務店)がよく私に問いかけてくれることからヒントを得た。彼は私に会うたびに常々、
「のんちゃんがやりたいようにやればいいんだよ」
「やりたいことしかやらないって決めちゃいなよ」
と勇気づけてくれる。普段、私も知らず知らずのうちに、行動の軸を自分軸ではなく他人軸にして動いてしまうこともあるから、かとちゃんの言葉や生きる姿勢はいつも心に刺さる。確かに、行動の軸を自分軸にして、自分の「やりたい」に素直になると、一見エゴイズムが強化するように見えるが、これが綺麗に消え去るのである。おそらく、曇りのない純粋な「やりたい」は、単純に「やりたい」を行動によって叶えるだけでそれがそのまま自分を満たすことに即つながるから、翻って相手をGiveで満たす余裕、余白もまた生まれるのだろう。
最後の三つ目は「徹底的にエゴを出し切る」である。非常に過激なやり方だが、おそらくエゴイズムを自覚的にかつ徹底的に向き合うために、これ以上に良い方法はないと思う。要するに、「何をしようともすべてエゴ」と割り切ってやれるだけのことは何だって徹底的にやってみるのだ。前にも言ったように、エゴは上手く使えば「向上心」として、人から評価されるために必要な力、スキルアップにつながる原動力にもなる。そのパワーを存分に生かしきらない手はない。そのためにも、自分のエゴが何を望んでいるのか、エゴを徹底的に満たすために一番効率的な方法は何なのかを、自己対話、自己探究を通して徹底的に見つめる必要がある。
重大発表で話した「のんフェス」なんかは、まさに三番目のやり方を軸にしている。私のエゴをどこまでも出せる場が用意されていたらそれはどんなシチュエーション、どんな形になるのか、イマジネーションを膨らませていった結果が、主演アーティスト・音楽システム・VJ・DJ・装飾・フード・物販全て自分のフェスティバルをやるという、何とも無茶苦茶な企画となった。そして、「宣言したからには、やりたいし、やり遂げる!」と決めることによって自分を奮い立たせると同時に、おそらく制作過程においてどこかでエゴイズムを突き抜ける瞬間が訪れるだろうという予感も、しているのだ。
グットニートになったらモテますか?
さて、この長い文章、そして長きに亘って書き綴ってきたGutto NEET Noteも、これでようやく終わる。
最後に、「グットニート養成講座を受けると、どうなりますか?」という問いに答えていきたいと思う。
そのために、私の成果発表会のスライドの冒頭で提出した問い、「グットニートになったらモテますか?」に今の自分がどう応えるかをもって、グットニート養成講座を受けるとどうなるのかの回答に代えたいと思う。
A.人による
グットニートになったらモテるか、と言われたら、まず言うべきことは
「それは人による」
という何ともありふれた回答をまずは返さなければならない。
世の中の大半がモテたいと思いながら暮らしている、わけでは実はない。
世の中全体の大体3分の2くらいが「モテたい」と思いながら暮らしているとしたら、その一方で大体3分の1くらいの少なくない割合で「モテても仕方がない」「モテたくはない」と思って暮らしている人たちがいる。
既に望んだパートナーシップを手に入れているので、浮気のタネになるようなことはもう必要ないと思っての「モテても仕方がない」もいるだろう。だが、それは割と少数派だと見ていい。「モテても仕方のない」人たちの多くは、どうやら単純に歳を取ったせいでモテたいという欲望そのものが衰えるらしいのだ。
とりわけ、男性が40代50代に差し掛かると、(人にもよるが)そういう現象が起こるらしい。私はまだその年齢に至ったことがないから分からないが、そうなっちゃった人が体験談として語っているのを聞いたことがあって、それ以来「確かに、あるかもしれないな」と思うようになってきた。確かに、欲望が衰えてしまった段になってモテ始めても、ある意味、仕方のない話だ。
だから、40代50代、あるいはそれ以上の年代の人がグットニートになりたいと思うかどうかについては、私はよく分からない。何か確実なこととして言えそうなことがあるとすれば、歳を取れば取るほど、「愛されたい」に含まれる意味のニュアンスがだんだん変わっていくということだろう。
したがって、モテても仕方がない、けど変にモテる、でも本当は愛されたい……といった複雑な悩みが歳を経るにつれて訪れることもあるのだろうと思う。そういう人に対して、「グットニートになったらモテますよ」などと軽々しくいうことは、おそらく何の意味もない。それぞれの年齢、それぞれのライフステージ、それぞれの置かれた境遇によって、グットニート養成講座に求めるものや、グットニート養成講座を通して見えてくる自身の課題は変わってくるだろうと思う。
そういう意味で、「愛されたい」の形は人それぞれだし、年相応に変化するので、誰にとっても「グットニートになったらモテるか?」という問いが意味ある問いであるわけではないことを、先に注釈しておく。
要するに、人による。
A.長期的にはモテるが、受けてしばらくはモテなくなる(かもしれない)
その上で、3分の2くらいいると思われる世の「モテたい」男女LGBTQ+の人たち向けに、グットニート養成講座を受けたらモテるのか、モテなくなるのか、私自身の感想をお届けしたいと思う。
ついおとついくらいに終わったばかりでまだ分からないが、おそらくそんなにすぐに「彼氏・彼女が出来ました!」という報告が出来るようには、ならないと思う。そんなにうまい話は無い。
むしろ、ここから数ヶ月間の動きは、講義やバディトレで培った成果を活かしながら行動する期間であり、「好ましい人」としてのブランディングに自分なりに磨きをかけていく期間であり、「自分はどういうパターンで愛されるのか?」をひたすらいろんな人に揉まれながら観察する期間でもある。受けてしばらくは、自分がモテるかどうかで悩んでいる余裕なんかなくなるのではなかろうか。
とりわけ、私の場合は「のんフェス」がある。今から既に制作は始まっている。でないと来年の2/12までに間に合わない! だから、めっちゃ忙しい。加えて、今年10/8のRingNe Festivalもあり、就活もあり、ぼちぼち進めている百人婚プロジェクトもある。大忙しだ。
私の場合、人生がより充実した未来を描くようになるための変化の時期に、グットニート養成講座を受けたような気もするし、グットニート養成講座を受けることによってより人生が充実した未来を描く大変化を引き寄せているとも言えるし、さて鶏が先か卵が先かは分からないが、とにかく大きな変化の時期にいる。
変化の時期には、大抵全くモテないか、あるいは急にモテ始めて急に終わるか、どちらかを経験するのが相場らしいが、私の場合はどちらだろう。まだ分からない。
一つ言えることがあるとすれば、全ては積み重ねであり、全ては継続であるから、長期的な目線でモテを意識する必要がある、ということだろうか。そして、短期的にはモテは全く考えなくていい、ということも言えると思う。
A.モテ体質の本質が理解できるようになる
であるからして、グットニート養成講座を受けたら実際モテるのかモテないのかは、この際考えなくてよくて、むしろモテるようになる体質づくり、いや、人から愛されるための愛され体質づくりをどうしていくのかを考えた方が建設的だと思う。
グットニート養成講座は、「グッとくるニート」を養成する講座だ。
何かしら人にとってグッとくるポイントを持っていられるということは、そのまま人から愛される体質が整っているということでもある。人から長く愛されるような資産を自分の中に蓄えて、相手に合わせて自在に引き出せるような素質が備わっていれば、わざわざ「愛されたい」と努力しなくても、自分の持ち味だけで勝負して、十分人から好かれるようになるのだ。
そういう体質を育むヒントは、「自己受容」だとか「余白」だとか「適度に満たされておく」だとかの表現でこれまで詳しめに語り尽くしてきた。その中で見えてきた愛され体質の本質を三項目で縮約すると、こうなる。
自分が満たされるポイントを知り尽くしている
自分が満たされるハードルを出来るだけ下げる
いつでもどこでもどんな状況でも満たされるように自分に愛を向けている
これらの三項目が満たされていると、相手のどんな反応に対しても愛を感じられるようになり、相手の気遣いを優しく受け取れるようになり、相手に対して見返りを求めることをしなくなっていく。常に自分は人から愛されていると心から感じているので、それが巡り巡って他者に対する自然な愛情に変わって、さらに巡り巡ることで結果的には愛される人間になるのだ。
このような「愛の循環」の輪の中に自分を入れていけるようになるための、グットニート養成講座なのである。
その意味で、私はどんな人にも「愛の循環」の輪の中に自分を入れられるような人になって欲しいと願うし、その意味でこそ、グットニート養成講座を誰もが受けることを勧めたい。
以上で、グットニート養成講座の全感想を締めくくる。
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