尊敬する気持ち。
11/9(月)午後1時の光。
ピントや露出を揃えているときに、間違ってシャッターを押した一枚。
ピンぼけしている写真のほうが、ありな気がしてきます。
数年前に、40年間もがいて必死に生きて来て、
職場の23歳男性から教わったことがあります。
その方からはたくさんのことを教わってきており、たくさんのことを頂戴し賜ってきておりますが、
私はある日、親子のケースもありうる約20歳ほど若いと言ってもよいその方へ、
「すごい人だなぁ」と尊敬の念を持つようになっていました。
それまで尊敬するべき対象というものは、
歴史上の人物や偉人「何かすごい人」「驚異的なことをした人」「前人未踏的な人」「稀有中の稀有な人」がその対象であることが望ましい、またはそうあるべきであり、という思い込みのようなものがあり、思春期の頃「尊敬する人がすごい人ほど、自分の箔が付く」というような価値観を持っていたかもしれず、どこか歳を重ねてもそれをキャリーオーバーしていたかもしれません。
まずそうではないのだ、ということを気づかされ、
新卒級のその方とお仕事を一緒にさせて頂くようになり、
ある日尊敬の念を持ち始めていることに気が付いたときは、年齢など関係ないとしても実際に20歳も離れた方を尊敬していることに、当時は内心に一種のカルチャーショックのような衝撃が到来しました。
尊敬の念を抱かせる、そう思わせる、このお若い方はすごい、と思い、尊敬が深まり、
そのような方に出会えて幸運であるとも感じ考えるようになりましたが、それだけでなく実際にたくさんの幸運も恵んで下さり、
たくさんのことも頂きつつだったので、その方を「神様」と呼ぶようになり、それからほどなくしたある日、
周囲の若い方々を初め、周りの多くの方を、少しずつ1人、また1人と尊敬の念を持つようになっていました。
そうやって尊敬する人が広がり、それぞれへの尊敬が少しずつ深まっていき、尊敬する人が周りにこんなにもいる、とある日知り、
つまりは「尊敬する人は周りにたくさんいる」ということも教わった次第です。
尊敬する方が周りにたくさんいて、ということに気が付き、尊敬する方々に囲まれるようになった私に訪れたもの、その一つは「大きな幸福感」でした。
年齢に関係なく、輪を掛けて尊敬する方も増えてきたり、
髪を切りにいけばヘアスタイリストの方へ、
なんたる感性なのだろう、あるいは私には見えないゴールが見えて切り始め、
ありとあらゆる私には見えないものが見えていて、しかし何が見えていらっしゃるのだろうと想像してみることは楽しく、エキサイティングであり、
たとえばそのような点を一つみてもしみじみ驚異を思うようになりました。
「尊敬する人は親です」というお若い方もその世ごとにいて、
そのような方はなお更にすごいと思うようにもなりましたが、
40歳を越えてから知ることも多くあり、
ご周知の方々も多いと思いつつ、
教えて頂いた「尊敬する人は周りにたくさんいる」ということを、
ほんのりゆるく共有をしてみたくなりました。
今日はだいぶ肌寒いですが、
「そうだ、カメラ持ってサイクリングいこう」と、
遠出するわけではありませんが、
清らかな風の中に、また暗い写真を撮りに、
出かけてみたいと思います。
今、神前 暁殿という、僭越の極みながらこれまた才能あふれる方の存在を教えて頂き、旋律が耳に入り、心を震わせながら、
これを記していますが、このような環境は、
いうなれば超一流シェフが作るいつもの朝食、かのごとく贅沢な話しだと思いつつ、
神前 暁殿という方はじめ、才能に恵まれ溢れる方々は、生まれる時代が違えば、たとえばモーツァルト殿かバッハ殿のようになったのだろうとも想像してみれば、逆にモーツァルト殿が現代に生まれていれば、神前 暁殿のように活躍をしていたに違いない、と想像のエキサイティングは増すばかりです。
以上、昨日のランチ散歩でした。