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のり弁協奏曲(独唱)


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のり弁とはなんだろうか。それは人生とはなんだろうか、という問いに似ているはずだ。(FUJIののり弁)


オールド

だから私はスーパーマーケットで売っている安価なのり弁が滅法に好きだ。「この値段でこんなに美味しいの?」としみじみ味わい、幸せを感じるのだ。

「農家や漁師、一次産業の方々がいて、市場を通って加工会社や問屋があって、小麦粉一つも方々行き来して運ぶ人たちもいる」

「企画から業者の方々とのやり取り、実際に作る現場やそこでの人間関係のストレスもあって、陳列、経営とそれらの努力に輪がかかってこれを頂ける」

無論、容器やそれを作る機械、電力に至るまで、いったいどれだけの人達が携わってこの宝石箱ができているのであろうか。

と感謝を確認し、味わって、生きている実感を得るのである。なお「だから」という接続詞にとくに意味はない。「したがって」であってもかまわないのだ。(オールドレンズ系ののり弁)


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それがどうだろう。少し高いのり弁と出会ったばかりに「これでどこへいってもマウントを取れる」「その気になれば絶対王者として、蟻の巣を水攻めだってできる」と人格者でもあるにもかかわらず、天狗になっている私がいた。この日の昼を境に完全に世の中を見下すようになっていたのだ。(ソニーののり弁)


キヤノン

アーサー王や光厳天皇もこのエグゼのり弁を食べたに違いない。私にはわかる。選ばれし者だけが食すことができるののり弁なのだ。と思いあがっていると例外なく訪れることがある。それは人生のつまづきだ。(キャノンののり弁)


幕の内弁当UP

米粒の大きさからこのご飯の層、その厚み、いや薄さを判断してほしい。薄いのだ。まったくもって薄いのだ。ご飯を掴みに行くはずの箸が、予定していたご飯の感触を得ることなく、容器の底にあたるのだ。




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