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週報 2023/07/02 『パスタでたどるイタリア史』を読んだ、野生と知性の弁証法

6/24(土)野菜スープの研究

フランス野菜スープの研究を開始。

きっかけは『パスタでたどるイタリア史』という本。「中世の農民はミネストラ(ミネストローネ)を作って野菜スープに雑穀を入れいてた」と書かれているのを読み、これは一汁一菜だ!と気づいた。

『一汁一菜でよいと至るまで』によると、フランスではミネストラに似た野菜スープが毎日の一汁一菜として食べられているらしい。フランスもイタリアもご近所なので平民の食生活は似通っていたのだろう。


ちょうど我が家も土日の料理に困っていた。体力があれば凝った料理をするのだが、このごろ忙しくて昼、夜の調理が手抜きになっていた。外食は苦手で時間がもったいなく感じる。

自炊をするしかないのだが、味噌汁は平日限定みたいな意識があった。ハレとケを明確に分離したいのだと思う。土日は土日のものを食べたい。

という事情でフランス野菜スープが生活にうまくはまった。おいしい食事の型が確立できて喜んでいる。

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向こうの野菜はエグいのかな、と疑問に思って欧州と日本の野菜の違いについて調べた。

日本の野菜を見直す

この資料によると、イギリスの野菜は硬くて甘みが少ないそうだ。なのに傷みやすいという。英国留学する人はたいへんそうである。
フランスの料理動画を観ると、みんな野菜の皮を剥きまくっている。ずっと不思議に思っていたが、野菜の皮が硬いからなのだろう。

6/25(日)イーブイを進化させる

この日も朝から野菜スープを作った。昨日のロットはたくさんあったはずなのに、夜食や朝食として食べ尽くされてしまった。
昼は新しいロットのイーブイをマカロニチーズ味にして、夜はイーブイをタイ米チーズ味にした。

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昼、烏丸を歩いていたらアフリカ系の女性を見かけた。膝下が長くてすらっとしている。足首なんか折れそうな細さだ。二次元美少女の骨格みたいである。
イラストの美少女は理想化されまくった結果、アフリカ系人種なみに手足が長いのだ。

6/26(月)暗い日記がいい

千葉雅也の『アメリカ紀行』を読んで日記文学を気に入る。そういえば中島義道の『観念的生活』もよかった。千葉氏も中島氏もどこか暗さがあるのがいい。うじうじ考えている日記は好みだ。

日記がいいのは劇的な事件が起きないのもある。このごろエンタメが苦手なのだが、たぶん作為が感じられるのが理由だ。スレている私は「どうせ二項対立構造の操作でしょ」「意識を乗っ取ってくれるな」と思ってしまう。エンタメではなく、文学なら違うのでは、という希望を感じているこのごろである。

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さいきん妻氏が大残業をしている。しばらくは追い込み時期だそうな。
この日も帰ってくるなり、ふとん蓑虫になって動画をみていた。「労働には酒が効くぞ」と言ってワインを与える。

6/27(火)体温リズムを知りたい

1時間ごとに体温を計測してみている。

仕事をしていて16時ぐらいからしか頭が絶好調にならないので困っている。16時といえば体温が上がってくる時間だよなあ、と思って自分の体温リズムを計測することにしてみた。
場所は鼓膜。発汗の影響を受けないから安定していて、深部の温度を反映しやすい。
リズムと体温をあげる方法を確立して、一日中バリバリ活動したいものである。難しい本をずっと読める体調を目指したい。

6/28(水)ポストを空にするおばけ

怪談みたいな珍事が起きた。

自宅のポストに大量のチラシが溜まっていて、さすがに回収をしようかという話をLINEでしていた。そのやり取りをした直後、私はマンションのロビーに到着する。まだチラシが入っていたので全部回収して家に帰った。ところが、帰ってみると妻氏の靴はなく、妻氏もチラシを回収しに出かけたことがわかった。

その頃、妻氏は空になったポストを見て恐れおののいていた。私が1階から呼んだエレベーターが動いたのを見て、人と会いたくないからという理由で階段を使ってしまったらしい。だから私と出くわすことなく、ポストのチラシが消滅する怪奇現象に見舞われたのである。びっくりした妻氏は管理会社の電話番号をブツブツ呟いて暗記しながら家に戻ってきたそうな。

挿絵

6/29(木)喧嘩は絶対に買わない

朝から怒られが発生した。同僚がチャットで私にキレているのだが心当たりはなく、指摘されている内容も激怒するほどのものだとは思えなかった。何かがおかしい。上司や別の同僚を巻きこんで相談したところ、よくわからないね、となった。彼は何か勘違いをしているようだった。

喧嘩は絶対に買わない。不毛だからだ。「個人対個人」じゃなくて、「チーム対問題」の話にしましょうよ〜、ちゃんと事情は聴きますよ〜という対応をし続けた。だが相手は「とにかくお前が悪い」の一点張りで話がかみ合わない。こりゃ難しいな、となった。

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たいへんストレスの高い一日を過ごした結果、深部体温はいつもと違った異常なグラフを描いた。私の深部体温は夕方に37℃になるのがやっとなのに、この日は朝から交感神経がバチバチである。深部体温は正確に自律神経の具合を反映していておもしろいな、と思った。

6/30(金)

マネージャーの介入により、とりあえず終息した。コミュニケーション不足による勘違い、暴走という診断がつく。足りないコミュニケーションを補っていく方針が立てられた。

ただ穏やかに仕事をしたいので、これまでの暴言は水に流して価値観と癖の調整をしていくつもりだ。まだ問題は片づいていなくてしんどいが、成長材料を拾ういい機会でもある。しばらくは内省と対話が大事になりそうだ。


この日も体温グラフはめちゃくちゃだった。
仕事にならないので早々に家に帰って休んだ。

『パスタでたどるイタリア史』を読んだ

読みやすいイタリアの歴史の本。古代ローマの時代から現代までを描く。

有史以来、イタリアらへんはギリシア文明とローマ帝国のおかげで栄えていたのだが、南下してきたゲルマン人に滅ぼされ暗黒時代に突入する。ローマ帝国のころは小麦と野菜、オリーブオイル、ワインを大事にする文化だったのに、ゲルマン人は肉・肉・肉である。肉をたくさん食べられるのが権力の象徴だとか。野蛮である。小麦畑が荒れたので、しばらくパスタ文明は後退してしまった。

パスタは中世に復活する。不遇なイタリアは大国に分割支配されていたのだが、南のほうをイスラム勢力に支配されていたおかげで乾燥パスタが伝わった。乾燥パスタは保存と貯蔵ができるので、便利に使われることになった。当時の分割支配の影響は現代にも及んでいて、イタリアの南は乾燥パスタ、北は生パスタの風潮があるらしい。

なぜイタリアでパスタが定着したのか。著者はミネストラがあったからでは、と書いている。ミネストラとはミネストローネと似たような野菜や豆を入れたごった煮のスープ。中世の貧農はミネストラに雑穀をいれて食べていた。雑穀の代わりにラザニアを入れたら、スープパスタになる。

とはいえ、当時は小麦が高価である。パスタは加工が大変なのもあり近代になるまではパンより貴重品だったそうだ。祝祭のときに食べるものだったとか。中世の夢物語には無限にパスタを食べられる楽園すら登場している。


イタリアが統一されたのは明治政府成立と同じくらいの時期で西欧にしては遅い。

国家として統一されたといっても文化はなかなか揃わなくて困っていた。地方ではバラバラの言葉を喋っていて、国民国家の成立は遠い。そこで文化の統一に寄与したのがパスタらしい。アルトゥージという人がイタリアのさまざまな料理を調べてレシピ本として出版した。この本が現代イタリア語の標準語を形づくったところがあるのだとか。


総じてよい本だった。岩波ジュニア文庫のレーベルなだけあってたいへん読みやすい。筋もおもしろい。

異文化について知るには読書が効率的だな、と思った。

野生と知性の弁証法

同僚が怒った件についてマネージャーと喋ってみたところ、私にもよりよくできるところがあるのがわかった。

私は「コア」を掴むとよく仕事ができる。逆に「コア」が掴めないとうまく動けないことが多い。「コア」とは本質とか、大きな目的、その仕事の位置づけとかを言葉で表現したもの。「どういう背景で、何のために、それをやるの?」が明晰になってないといけない。だから、同僚が「xxのようにしてくれ」「ここをなおしてくれ」と言ってきても、その指示の背景がわからないと、本質的には行動が変えられない。もしかすると普通は具体的な指示を受け続けると「コア」が掴めるのかもしれないが、私の場合は言語を介さないとダメなのだ。今回は相手が言語化の下手な人だったから事件になったわけである。

「コア」がハッキリしていなくても行動できる人は多そうだ。ノリでとりあえず手を動かしてみる、というやつ。私は苦手である。でも、意味がわからなくてもとりあえず真似をすることで得られるものはある。言語習得や音楽がまさにそうだ。


妻氏の母校の音楽教師は「わからんまま歌え!わかってからでは遅い!」と言っていたらしい。

「わからんまま歌う」のはどこか動物的で無思慮のようにみえる。何も説明はできないのに「野生の本能」で行動するようなもの。わからんまま間違ったこと、無駄なことをやるかもしれない。

一方で「わかるまで判断を留保する」のは理性的なやり方である。だが、たしかに「わかってからでは遅い」ことはたくさんあるのだ。

大事なのは両方できること。「わかる / わからない」の二項対立構造を止揚したところに「わからないが歌ってみる」という判断留保をしつつ、とりあえず経験を溜める態度があるのではないか。

ただの野性的な「歌ってみる」だけだと「わかった気になって歌っている」のかもしれない。理性的な「わからないからやらない」を超えて「わからないことに耐えつつ歌う」のが止揚された態度である。この二つを外からみたとき「わかった気になって歌っている」のと「わからなさに耐えながら歌っている」の区別はつかない。


この構造は『勉強の哲学』における「勉強を経由して、一周まわってバカに戻る」のと同じである。

そして、また環境のなかで、行為する。
浮いた立場から、「一周回って」環境に戻る。
ただ場から浮いているわけにはいかない。自分の享楽的なバカさによって可能性の比較が中断され、何か行為が起こってしまう。あなたに特異なダンスとして。
たんに場から浮いているだけでなく、「変化しつつあるバカさ」で行為する。
それなりに周りに合わせもしながら。多少はノリがぎくしゃくするときがあるとしても。
(中略)
そのときに、来るべきバカと、たんに周りのノリに合わせているバカを見分けられるでしょうか?その背後に小賢しさを畳み込んでいるバカと、ただのバカを。

『勉強の哲学 来るべきバカのために 増補版』p.164

判断留保はものごとを固定化してみないので柔軟性をもたらす。しかし、判断に使う情報がやってくるのを待っているだけだと、なかなか変化は起きないのだ。せっかくの柔軟性がもったいない。だから「わからんまま歌う」ことで、柔軟性をフルに活用し変化を加速させるのである。

ということはわかったが、身につくのにしばらく時間はかかるかもしれない。


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