東京ヤクルトスワローズ・背番号史「1」
1950~1953:井上親一郎
1954~1955:宇野光雄
1956~1960:佐々木重徳
1961~1965:杉本公孝
1967~1970:奥柿幸雄
1972~1989:若松勉
1992~1999:池山隆寛
2001~2006:岩村明憲
2010~2011:青木宣親
2016~:山田哲人
今では「ミスタースワローズ」の代名詞も、当初は苦い思い出を背負った「1」。
野球と言うスポーツにおいて、背番号「1」が持つ役割は実に多岐に渡ります。高校野球であればエースナンバー。プロ野球でも多くはスター選手、または将来を嘱望される若手に託されることが多いですよね。
そんな中で東京ヤクルトスワローズの背番号「1」は、現在では「誰も疑うことのないチームの中心選手」が背負うべき番号、つまり「ミスタースワローズ」を表すものになりました。しかし、その役割が球団創設当初から与えられていたわけではありません。
1950年当時の国鉄スワローズ創成期に、初代背番号「1」を背負ったのは井上親一郎でした。
井上は旧制米子中学時代に清水秀雄(元南海・グレートリング→中部日本・中日→大洋・大洋松竹)とバッテリーを組み、春夏連続甲子園出場を経験。慶應義塾大から帝国鉱業開発、大阪鉄道管理局を経て1947年に母校・米子中の野球部監督を務め、米子鉄道管理局を経て国鉄スワローズ結成に参加。当時既に32歳のベテランでありレギュラーとしての活躍は少なかったものの、初代主将を務めたほか若き金田正一の指南役も務めていました。
井上が1953年限りで現役引退した後、「1」を継いだのは巨人から移籍した宇野光雄。宇野は旧制和歌山中学時代から名選手として鳴らし、井上と同じ慶應義塾大を経て藤倉電線から巨人へプロ入り。巨人時代は肩の故障で一時退団するものの(退団後に一時、当時昭和を代表する映画女優だった山田五十鈴の付き人を務めていた)、1950年に二軍監督として巨人へ戻った際に肩も回復して現役復帰。1951年から三塁手のレギュラーを務めると、この年は打率.303をマークするバッティングとガッツのある守備でチームに貢献しました。
そんな宇野も紆余曲折を経て、1954年に国鉄へ移籍。国鉄ではコーチ兼任ながら4番打者として打率.291を記録し、ベストナインを受賞する活躍を見せます。宇野が「1」を背負ったのは1954年・1955年の2年間のみですが、「常勝軍団」のメンタリティを知る貴重な存在として、レギュラーとしての活躍を見せたと言えるでしょう。
宇野は1956年に選手兼任監督となりますが、その際に背番号を「30」へ変更。当時はまだ1チームを構成する選手数が少なく、監督が30番台を背負うことは多々ありました。宇野もその例に漏れなかったと言えます。
代わって「1」を受け継いだのは佐々木重徳。1956年に二塁手のレギュラーを掴むと、そこから「1」を背負った最終年となる1960年主力としてチームを支え、時にはユーティリティープレーヤーとして、時には「巨人キラー」としてチームに貢献しました。
佐々木が1961年に背番号を「17」へ変更すると、次に受け継いだのは立教大学で長嶋茂雄の後を継いで三塁手として活躍していた杉本公孝。当時黄金時代と言われていた立教大学の主力選手として活躍していた杉本にかかる期待は当然大きく、ルーキーイヤーの1961年には同じくルーキーで早稲田大学から入団した徳武定之と三遊間を組まれていました。しかし杉本はこの年の8月に故障して完全なレギュラーは掴めず、その後も1964年に1年だけ二塁手としてレギュラーを確保したものの「大活躍」とは言えず。1966年には大洋へ移籍していきました。
「1」は1966年の欠番を経て、1967年から奥柿幸雄に託されます。
奥柿は静岡商業高で甲子園に出場して長打力をアピールし、「王貞治2世」と呼ばれてプロ入り後も王と同じ「1」を着用。一塁手は当時レギュラーだった豊田泰光、小淵泰輔がベテランだったために期待も大きく、1年目から積極的に出場機会を与えられました。
しかしなかなか芽が出ず、46試合の出場で打率.082と低迷した1970年に失踪。周囲の重圧に耐えられず、大成を見ることもなく球界を去って行きました。
若松勉の登場と池山隆寛の継承が、スワローズの「1」を球界屈指のゴールデンナンバーに押し上げる。
上述したように、1960年代までの「1」は決して輝いていた番号ではありませんでした。特に杉本、奥柿が大成せず球団を去って行ったことで、球団としても扱い辛い部分があったのかも知れません。
しかし、そんなくすぶりかけていた「1」に救世主が現れます。
それこそが、1972年から18年(2023年シーズン終了時点では最長)に渡って「1」を背負った若松勉です。
若松は身長168cm(公称。実際は166cm)と小柄な体格で、北海高時代、電電北海道時代と好選手であることは知られていましたが、本人はその小柄な体格もあって当時プロ入りに消極的。ドラフト指名を受けた時は挨拶から逃げ回り、最終的には当時ヘッド兼打撃コーチを務めていた中西太の説得によってプロ入りを果たしたと言う経歴を持っています。
入団当初「57」を与えられた若松は、ルーキーイヤーの1971年にいきなり112試合へ出場して規定打席未到達ながら打率.303を記録。猛練習にも裏打ちされた非凡なセンスを発揮し、1972年から「1」を着用することになりました。
その後の若松の活躍は、特にオールドファンであれば説明不要でしょう。「1」へ変更した1972年に打率.329をマークして首位打者を獲得すると、その後も不動のレギュラーとして12度の規定到達3割を記録。1978年にチームが史上初のリーグ優勝・日本一を達成したシーズンは打率.341、17本塁打を記録して大きく貢献し、積み上げた通算記録は2173安打、220本塁打。生涯打率.31981はレロン・リーに次ぎ歴代2位(日本人では最高)を記録し、「小さな大打者」と称されるまでになっています。
若松は1989年限りで現役を引退しますが、当然これだけの成績を残した選手の背負った「1」の重みは相当なものになります。実際1990年から2年間は空き番号となっており、球団としても「どの選手に後を継がせるか」は迷うところだったでしょう。
そこに現れたのが、「ブンブン丸」池山隆寛でした。
池山は1983年ドラフト2位で私立尼崎高からヤクルトに入団し、当時の背番号は「36」。持ち前の長打力で2年目の1985年から頭角を現し、広沢克己とともに「イケトラコンビ」と呼ばれてファンからの人気もありました。
池山が背番号「1」を継承したのは1992年のこと。既に遊撃手のレギュラーとして主力級の活躍を見せていた池山は、この年127試合に出場して打率.279、5年連続30本台となる30本塁打を放ってチームのリーグ優勝に大きく貢献します。実績もついて来ていた池山の活躍を、当時のファンは恐らく「ずっと続くもの」と思っていたかも知れません。
しかし翌1993年、池山は死球や故障の影響で不本意な成績に終わります。以降も打撃は本調子に戻らず、チームが優勝・日本一を達成した1995年や1997年にはレギュラーとして活躍を見せますが、全盛期のそれではありません。特に1997年は宮本慎也の台頭で三塁手にコンバートし、また両年とも日本シリーズでは活躍を見せましたが、年を経るにつれて少しずつその輝きは褪せていました。
そして60試合の出場に留まった1999年をもって、池山は「1」を返上します。
池山が「1」を返上した経緯については、以下の書籍に記述があります。
他にも「1」にまつわる話がありますが、それはやはり購入して読んでいただきたいと思うので、詳しくは述べません。
しかし読み返して思うに、今の「スワローズの背番号1」が作られたのは、池山が1999年オフに決断した「1」の返上があるのではないかと、思わずにはいられない。
「背番号1を背負う選手は、常にグラウンドに立っていなければならない」。そんな思いがあったからこそ、池山は「1」を返上したのだと。
もしここで池山が「1」を返上しなくとも、ファンの多くは批難もしなかったかも知れません。しかし池山の美学が、それを許さなかったのではないか。
この時、「スワローズの背番号1」が大きな意味を持つものとして宿命づけられたのではないか、とぼくは思っています。
岩村明憲、青木宣親、山田哲人へと渡り、その価値を高め続ける「1」の行く先は。
こうして主を失った「1」は、2001年に岩村明憲の手へと渡ります。
1996年ドラフト2位で宇和島東高から入団した岩村は、ルーキーイヤーから非凡な打撃センスを見せると、1999年には一軍の戦力として台頭。2000年には「1」の先々代である当時の若松勉監督によって三塁手のレギュラーへ抜擢され、規定打席到達を果たしゴールデングラブ賞を受賞する活躍を見せました。そして「1」を背負った2001年、岩村は136試合に出場。打率.287、18本塁打81打点、さらに15盗塁をマークして、チームのリーグ優勝・日本一に貢献します。
岩村が主力としてヤクルトをリーグ優勝・日本一に導いたのは、この2001年が唯一と言っていいと思います。しかし岩村自身は2002年からも看板選手として活躍を続け、2002年には自身初の打率3割(.320)に20本台の本塁打(23本塁打)をマーク。2003年は怪我に苦しんだものの、2004年からは3年連続打率3割に合計106本塁打282打点をマークするなど、球界屈指の強打者へと成長を遂げました。2006年には第1回WBC日本代表にも選出されて世界一にも貢献し、2007年からはメジャーリーグに活躍の場を移すこととなります。
「1」はその後3年間の空白を経て、2010年からは青木宣親が着用。
青木は2004年の入団当初「23」を背負い、2009年までにこちらも球界屈指の好打者としてその名を轟かせます。タイトルだけでも2009年までに首位打者2回(2005年・2007年)、最多安打2回(2005年・2006年)、盗塁王1回(2006年)、最高出塁率2回(2007年・2009年)を獲得。2005年のセ・リーグ新人王に輝いたほかベストナインとゴールデングラブ賞は常連で、当時の東京ヤクルトにおいてはまごうことなき「看板選手」でした。
そんな青木が「1」を着用したのは、冒頭の記述を見れば分かる通り2年間のみです。打診自体は岩村の退団後から受けていたようですが青木が「時期尚早」と断り、2010年にようやく実現したものでした。
もちろん、これまでの青木の実績からして「背番号1の後継者にふさわしくない」と思うファンはいなかったでしょう。その実績の通り、2010年の青木はNPB史上初となる2度目のシーズン200安打を記録し(1回目は2005年)、キャリアハイの打率.358をマークして3度目の首位打者も獲得しています。
しかし、そんな球界トップクラスの実力と実績を持つ青木に、「メジャーリーグ挑戦」がちらつかないわけはありません。そして2011年オフ、青木はポスティングシステムを行使してミルウォーキー・ブルワーズへ移籍します。「背番号1の青木」が見られたのは、この2年間だけでした。
青木の退団後「1」はさらに4年間の空白を経て、「次のミスタースワローズを名乗るのは誰か」とともに注目されます。そんな中で「1」を射止めたのは、2016年から現在着用を続けている山田哲人でした。
山田は2011年に青木から受け継いだ「23」を背負ってプロ入りし、この年は高卒ルーキーで一軍出場がないながらクライマックスシリーズで一軍デビュー。3年目の2013年に台頭の兆しを見せると、2014年には一気に二塁手のレギュラーへ定着して打率.324、29本塁打89打点をマークし、若きスター候補へとのし上がります。
2015年には球団史上初、セ・リーグ史上最年少でのトリプルスリーを達成し、また本塁打王を獲得してチームのリーグ優勝に貢献。名実ともにスター選手となったその年のオフ、山田は栄えある「1」を与えられました。
山田の活躍は留まることを知らず、2016年にはプロ野球史上初となる2回目のトリプルスリーを達成。2018年には3回目を記録し、前任の先輩たちに劣らない球界屈指のスタープレイヤーとなりました。
しかしチームは2015年のリーグ優勝後、低迷に喘ぎます。山田が孤軍奮闘してもチームの勝利には結びつかない時もあり、不振に喘いだ時期もあれば怪我で戦線離脱を経験したシーズンもあります。それでも看板選手としてチームを牽引した「1」の山田を慕うファンは多く、低迷するチームにあって希望の象徴であり続けていたと思います。
それが報われたのが、2021年でした。この年の山田はキャプテン就任を志願してチームを率い、打率こそ.272に終わったものの34本塁打101打点をマークして中心打者としての重責を全う。チームがリーグ優勝・日本一を達成する中で間違いなく大きな貢献を果たしました。
続く2022年もチームはセ・リーグ2連覇を果たしますが、この年の山田は再び不振に喘ぎます。リーグワーストの140三振を喫し、打率も.243と低迷。時には「助けてください」とチームメイトに頭を下げることもありました。それでも山田の存在感があったからこそ、リーグ2連覇は成し遂げられたのではないか。そして「背番号1」の観点で見た時に、かつて池山が自らの美学を持って「1」を返上した時に形作られた精神が、山田によって新たな印象が作られるのではないかと思います。
東京ヤクルトスワローズの栄光ある背番号「1」の行く末について最後に書いて締めますが、身も蓋も無いことを言えば「将来のことは分からない」。「1」に絞って言っても、山田がやがて来る現役引退の時まで「1」を背負うか、はたまた池山のようにいずれ「1」を返上する日が来るのか。そんなことは神のみぞ知る領域でしょう。
ただし「1」が持つ重みは、ファン以上に当事者が分かっているはずです。先述した岩村明憲は2013年に東京ヤクルトへ復帰、その当時「1」は空き番号でしたが岩村の背に戻ることはなく、入団当時の「48」を与えられて2年間プレーしました。岩村の心中、反発もあったようですが、裏を返せばそれだけ「重みのある背番号」になっていたのです。
ただこの先、「1」をどのような形にして次世代へ託すのかは「山田哲人の行動次第」と言えます。それは山田に不要なプレッシャーをかけるわけではなく、かつて池山がやったように「1」を「常にグラウンドに立っている選手のものとする」か、それとも違う形を作るのか。もはや山田の実績を疑うスワローズファンもほとんどいないでしょうから、そこは山田の好きなようにやっても文句は言われないと思います。
そしてその山田の「次」を考えると、2024年にプレーする選手で背負う選手がいるとも限りません。まだ見ぬ将来のスターが背負っているかも知れない。そもそも、まだ山田は年齢的に引退を考える時期でもないですからね。
ただ、次世代に「1」を担う選手のプレッシャーは半端ないものがあることだけは断言出来ます。それは若松勉以降、池山隆寛・岩村明憲・青木宣親・山田哲人と、連綿と紡いできた歴史が証明しているでしょう。
球界屈指の「大名跡」とも言える「東京ヤクルトスワローズの背番号1」。山田の来季以降の活躍にも当然期待しますが、次代を誰が受け継ぐか、興味は尽きません。
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