「歴史上の人物への評価」と「歴史上で好きな人物」
ぼく、野村中務少輔が好きなモノのひとつに「歴史(正確に言うなら日本史)」があります。
何を隠そうこの「野村中務少輔」と言うハンドルネームも、元ネタは古代朝廷の官職名から取っています。
と言うわけで、今回は「歴史モノ」で一発。難しい話があるので中級者以上向けではありますが、もしよろしければどうぞ。
なお、本記事は基本的に歴史上の人物・存命人物ともに敬称略で記します。ご了承ください。
ぼくが歴史に興味を持ったキッカケ、そして現在に至るまで。
幼少時代のぼくは、基本的に「野球」、「地図」、「漢字辞典」、そして「歴史」で育った人間です。
過去の記事で既に何回か触れていますが、ぼくが3歳頃から小学校卒業までを過ごした愛媛県西予市野村町惣川と言う土地は、四国山地の真っ只中にあります。言ってしまうとキツいですが「山しかないド田舎」です。中学校進学と同時に現住所でもある三重県伊賀市へ引っ越しますが、今の価値観なら「確かにここも田舎だね」と思える伊賀市ですら引っ越し直後は「コンビニがある、本屋がある、大きいスーパーマーケットがある、高速道路(正確には伊賀市を通過する名阪国道は『自動車専用道路』)も鉄道もある、じゃあ都会じゃん」と思うくらいには山しかない土地です。入って来る情報の絶対量が少ないことも、以前お話したかと思います。
そんな中でぼくが歴史に興味を持ったきっかけは、母親が見ていたNHK大河ドラマからだったと思います。
ぼくが最初に見た覚えがあるのは2002年の「利家とまつ~加賀百万石物語~」から。1年を通して全話見たのは2004年の「新選組!」からで、以降は基本的に欠かさず見ています。
「歴史好き」に関しては、ある程度お金と行動力、「自動車」と言う移動手段を手に入れた社会人になってから趣味が「深化」した節があります。
ひとつは「史跡の訪問」。要は「車を手に入れて行けるところが増えたので、行ける時に行こう」と言うやつですね。
例えば遠いところだと、福井県福井市にある一乗谷朝倉氏遺跡や、同じく福井県の敦賀市にある金ヶ崎城跡などはその典型です。前者は戦国時代、越前国(現在の福井県東部)の戦国大名として栄華を極めた朝倉氏の本拠地があった場所で、後者は南北朝時代と戦国時代に戦場となった城跡ですが、後述する歴史小説の影響で訪れています。
近場であれば、ぼくが今住んでいる伊賀市・名張市のいわゆる旧「伊賀国」は城跡がかなり多い地域なので、暇があれば行くこともありました。
伊賀国において「立派な天守や石垣、堀がある」多くの人が想像するような城は伊賀市中心部にある伊賀上野城くらいです。しかし戦国時代の伊賀は有力な戦国大名が存在せず、代わりに土豪クラスの在地領主が数多く点在。その土豪が自らの土地や財産を守るために城を築いた結果、ちょっと他の地域ではありえないような数の城跡が残ったわけです。
期待しないで欲しいのは、先程も言いましたが「一般に想像される城郭」は伊賀上野城くらい。基本的には一重からあって二重の堀と土塁で囲われたいくつかの郭を持つだけの、「砦」と言っても差し支えないような規模のものがほとんどです。しかしその中でも丸山城や柏原城、福地城のような大規模な城跡もあるので、城に興味のある方は一度訪れてみてはいかがでしょうか。
もうひとつは「架空国家の歴史の創作」。「なんのこっちゃ?」と思われる方が多いと思いますが、順を追って説明します。
まず、ぼくがやっている趣味のひとつに「架空地図の制作」と言うものがあります。簡単に言えば「実在しない土地の地図を描く」創作活動のことで、その規模は作者によって様々ですが、ひとつの自治体レベルのものからひとつの国家レベル、果ては「架空の星の全世界」レベルまで、探せばネットの海に数多く存在します。
ぼくの架空地図制作はまだほとんど形になっていませんが、レベルとしてはおおよそ日本レベルの一国単位を想定しています。地図を基準にして架空国家の設定を作る場合、地図に描く要素として国土とその地形、行政区域、交通網(道路と鉄道)があれば十分なんですが、そこにさらなる要素を加えようとしていて、そのひとつが「歴史の創作」になるわけです。
ここまで聞いても「関係ないんじゃないの?」と思われる人もいるでしょうが、少なくとも日本人の架空地図作者はその多くが日本をモデルにした国家を制作しています(島国であるとか、地名に漢字を使うとかね)。ぼくが見たサンプル数が少ないのもありますが、例えばヨーロッパチックな国家をメインにした創作は少ないはず。
であれば、「歴史を創作するのに、日本と似通った感じになる」のは自然のことでしょう。最大の例は「第二次世界大戦のオマージュ」じゃないかなと思うんですが、これはつまり「戦争に敗れ、海外領土を失う」と言うひとつのテンプレートを使う作者が一定数いるのではないか、と言う話ですね。
ぼくが作ろうとしている架空地図と架空国家は、この例に漏れず日本をモデルにしています。地理的条件(大陸とつかず離れずのところにある島国)も似通っているので、参考になるのはやはり日本の歴史なんです。
ちょいと突っ込むと、冒頭で「漢字辞典」について触れましたよね? もともと漢字そのものにも興味があったぼくは、幼い頃からいわば「漢字の宝庫」である人名にも興味を持っていました。その興味は今でも「実況パワフルプロ野球」シリーズでオリジナルチームを作成する際に生かされていますが(ここの舞台は実在する日本)、創作している架空国家においても日本人と同じ命名法を使おうと思っているぼくにとっては、実在する日本史上の人物は全てが貴重なサンプルなんです。
例えば暇な時、時間潰しの手段としてWikipediaを読むんですが、そこで読むジャンルの多くは歴史上の人物です。その中でも江戸時代の武士(特に中期以降の大名家の一族が多い)の名前は、パっと読めないものが多い。その読みを推理して来るべき時へ参考にするのが、ぼくの趣味のひとつだったりします。
例を挙げるなら、津藩・久居藩主藤堂氏はその宝庫。津藩8代の藤堂高悠は「とうどうたかなが」と読みますが、「悠」の字は人名で見る機会も多いものの「なが」とはなかなか思いつかないはず。もっと凄いのは久居藩14代の藤堂高秭で、読みは「とうどうたかやつ」または「とうどうたかかず」なんですが、そもそも「秭」なんて漢字見たことねーよ! となる人も多いのではないでしょうか。その読みを推理して確かめるのがぼくにとっては楽しいんですが、まあ、こんな感覚と趣味を持つ人はいないでしょうね…………。
「歴史上の人物」へ下す評価は、事績の数量とイデオロギーで変わるよね、と言うお話。
この節では、ちょっと政治的思想信条に踏み込んだ話もします。
古今東西、歴史上の人物に下される評価は多種多様だと思います。始皇帝、クリストファー・コロンブス、ナポレオン・ボナパルトなどは今パっと思いついたんですが、評価の分かれるであろう歴史上の人物は枚挙にいとまがないわけです。世界中でそうなんだから、日本でもなおさら。
この手の話で有名なのは、室町幕府初代将軍の足利尊氏でしょうね。
足利尊氏は室町幕府を開く前の鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、時の天皇である後醍醐天皇に一時は付きながら後に袂を分かち、後醍醐を京から追いやりました。その時に後醍醐が築いたのが南朝で、京で別の天皇を推戴した北朝との対立は60年ほど続きます。
尊氏の子孫が将軍職を継いで権力を握っていた室町時代はまあ悪く言われることはなかったはずですが、時代が下って江戸時代中期頃からいわゆる「南北朝正閏論」が起こり始め、明治時代以降にピークを迎えます。特に戦前の皇国史観においては「南朝正統論」の立場が主流となり、その過程で後醍醐に背いた尊氏へ「逆賊」「大悪人」のレッテルを貼り、一方で後醍醐・南朝に尽くした楠木正成や新田義貞らを「忠臣」と評価する流れが一般的になりました。
皇国史観による南北朝正閏論は、イデオロギーによる公平性を欠いた歴史認識の代表例として挙げられるとぼくは思っています。南北朝正閏論に関して言えば、戦後に皇国史観が廃れた後の足利尊氏再評価も一種の反動と見れるし、後醍醐天皇や楠木正成なども史料の再発見や見る角度の違いによって出される評価などで様々に動くわけです。
そして、歴史的事実をどう捉えるかがイデオロギーによって変わると言うのは、何も南北朝正閏論に限った話ではありません。皇国史観が全盛を極めた第二次世界大戦だけでも突っつけばいろいろと材料は出てきますし、何なら現代史でもそうでしょう。
ちなみに「歴史上の人物」への評価について、何らかの評価を下すには相応の情報量が必要です。
一般的に日本史上で最初にその特定の個人名が出て来るのは「帥升」とされていますが(正確に言うなら外国史書に記された日本初の人物)、帥升について現時点で分かっていることは「まだ統一されていない時代の倭国の王のひとり」で、「107年に後漢へ朝貢した」くらい。そもそもその名自体に議論の余地がある人物について、何らかの具体的な評価を下せるもんならやってみろって話だと思います。やれなくはないにしても、広がりはほぼないはずです。
帥升は現時点で日本史上最古の人物だからともかくとして、上代に遡れば遡るほど期待できる史料の量は少なくなりますから、その史料に書かれた事実に基づいて何かしら判断して評価を下す、と言うことも難しくなります。
また同時代に生きた人物でも、有名・高名・高位もしくは「勝者」であれば史料は残りますが、無名であったり「敗者」になった人物のそれは期待できません。また、基本的に歴史書は「勝者が作るもの」であることが多いので、敗者への評価は不当に下げられることがままあります。関ヶ原の戦いで敗れ、勝者になった徳川家康が開いた江戸時代を通してタブー視されたり悪評を広められたりした石田三成はその典型ですよね。
歴史上の人物への評価は、先述した戦前の皇国史観のようにイデオロギーによって簡単に左右されますが、これはぼく個人の体感としてイデオロギーに振り回されている人の下す評価はあてにならんと思っています。まあもっと言うと、存命人物への評価もそうなんですが。
人間そこまで完璧な存在ではないので完全中立も無理だとは思いますが、せめてイデオロギーに支配されないモノの見方はしたいよね、と言う話です。あと、ぼく個人的には過去の物事を現代の価値観だけで切り捨てるのも違うと思っています。いずれ書きたいと思いますが、メジャーリーグのクリーブランド・ガーディアンズやアトランタ・ブレーブスのチーム名もその一種です。
白状すると炎上が怖いので江戸時代の人物を持ってきますが、江戸時代初期に松倉重政と言う大名がいました。
重政は1616年に、大和国五条藩(現在の奈良県五條市)から肥前国日野江藩(現在の長崎県島原市)へと移封されます。重政が日野江藩で行ったのは領民へ重税を課す苛政と、過酷なキリシタンの弾圧でした。キリシタンの弾圧は、当時江戸幕府がキリスト教への禁教令を出していたのでまだ理解できなくもない(変に取り締まりが緩いと、逆に大名がそれを口実に改易されかねない)ですが、重政はキリシタンや税を納められなくなった領民を残虐な拷問にかけています。領民への過酷すぎる仕打ちは重政の子・勝家の時代も続き、それが結果として島原の乱へと結びつくのですが、それが原因となって重政は後世「暗愚」との烙印を押されます。
当時はまだ「人権」と言う概念がありませんでしたし(あっても極めて希薄だったでしょう)、戦乱の世の気風が残っていた江戸時代初期において重政のような苛政を敷いた大名は他にもいます。現代の価値観に照らし合わせれば重政の政治は「絶対にありえない」となるでしょうが、当時は果たしてどうだったか。少なくともキリシタン弾圧については、江戸幕府としては「ようやっとる」だったのかも知れません。
面白いのは、記述がWikipediaに因るものなので無条件に信頼は出来ませんけど、旧領のあった奈良県五條市では「重政は善政を敷いていた」と言う話があること。年月を経て人の性格が変わることは実際あるでしょうし、重政もそうだったのかも知れません。一方的に悪人扱いするのは簡単ですが、思い込みがあると視野が狭くなってしまうと言うことに留意する必要があります。松倉重政に限らず、肝に銘じておきたいところです。
事績や性格、後世の創作などをひっくるめた、「ぼくが好きな歴史上の人物」。
これまで6000文字以上を使って長々話をしてきましたが、記事タイトルにある「歴史上で好きな人物」って一体誰なのよ? と言う話。
ぼく自身が持つ思想信条や嗜好であったり、またはドラマや小説などの媒体を通したりして好きになった人物が当然います。
まず、歴史上の人物に対して「公」をつける呼び方があると思います。これをつけるのは先祖に恩を与えた人物や、その土地に功績を残した人物であることが多いはずです。
その点で言えば、ぼくが「公」をつけて呼ぶ人がいるなら、それは藤堂高虎でしょう。
ぼくは先述の通り愛媛県南予地方、そして三重県伊賀市にゆかりのある人間ですが、高虎はその2つともを治めた経験があります。高虎は築城の名人としてもその名が知られていますが、南予であれば宇和島城、伊賀であれば伊賀上野城などを築き、のちの宇和島市と伊賀市の基礎を作り上げたという点で評価をしなければいけません。
が、高虎が一番好きかと言われれば、答えは「NO」。
次に、「尊敬できる人物」。
これも評価軸によって変わるんですが、ぼくが思い当たるのは鎌倉幕府3代執権の北条泰時。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では坂口健太郎が演じていましたね。
泰時とて人間ですし全く欠点や過誤がないわけではないんですが、後世の評価は基本的に「人格者」であり「優秀な政治家」です。尊敬と言う評価軸においては、日本史上でも泰時に比肩し得る人物はなかなかいないのではないかと思いますが、ぼくからすれば「理想的過ぎて恐れ多い」感じを受けます。なので、確かに理想ではあるけど好きかと言われれば「うーん…………」。
で、ここからが本題。
結論から言ってしまえばぼくが好きな人物は、吉弘鑑理と山崎吉家のふたりです。
「誰?」となる人のほうが多いと思いますので、順を追って説明します。
まずふたりの共通点については、赤神諒の小説の主人公になっていること。
吉弘鑑理は「大友二階崩れ」、山崎吉家は「酔象の流儀 朝倉盛衰記」でそれぞれ主人公となっています。
小説はほとんど歴史小説しか読まないぼくにとって、数もそんなに多くを読んできたわけではないんですが、今一番好きだと胸を張って言えてかつ他人にオススメしたいのが赤神諒の作品群です。
では、各人について簡潔にその人物像を紹介します。
吉弘鑑理は豊後国(現在の大分県の大部分)の戦国大名、大友義鑑とその子・義鎮(宗麟)に仕えた武将。大河ドラマ絡みで言えば、2014年の「軍師官兵衛」で的場浩司が演じた吉弘統幸の祖父にあたる人物です。
「大友二階崩れ」では、大友氏の家督相続争いである「二階崩れの変」で亡くなった義鑑に変わらぬ忠義を示し、重厚に描かれている鑑理。史実でも主家である大友氏への忠義は厚く、主要な合戦の大半に参加しました。肥前国(現在の佐賀県・長崎県)の龍造寺隆信征伐に赴いた際には、降伏を願い出る隆信の野心的な性格を知っていた鑑理はまともに取り合わず、隆信を追い詰めるまでに至っています。
山崎吉家は、越前国の戦国大名朝倉氏の家臣。大河ドラマだと、2020年の「麒麟がくる」で榎木孝明が演じました。
「麒麟がくる」では精悍な印象のあった吉家ですが、「酔象の流儀」でのキャラ付けは「巨漢で仏のような男」。榎木のそれとは逆と言っていいと思います。
吉家の性格などを示す資料が残っていないために2つの作品で正反対のキャラ付けに至ったんだと思いますが、史実としては斜陽に向かう朝倉氏の中で重要なポストを占め、勢力伸長の著しい織田信長を相手に一時は傘下の有力武将を討ち取るなどの功績を挙げたことは確かです。しかし時代の波には抗しきれず、最期は朝倉氏にとって「終わりの始まり」となる刀禰坂の戦いで主君・朝倉義景を逃がすための殿を務め、戦死を遂げました。
この2人を好きになった理由は、ひとえに赤神諒の書き上げた作品に惹かれたことです。あとは日本人に特有の「判官贔屓」が追加され、決してハッピーエンドではない物語の結末にそれ故の美しさをぶつけられた、そんな感じです。
ぼくは各々の作品の主人公ふたりを挙げましたが、魅力的なキャラクターはそれこそ他にもたくさんいて、大友家中では他作品も含めると戸次鑑連(立花道雪)や小原鑑元ら、朝倉家中では堀江景忠や魚住景固らがいます。大友氏が勢力を張った大分県は遠くてなかなか行けませんが、朝倉氏の本拠地であった福井県は、前述の通り史跡を訪れるくらいになりました。
これ以上この記事で語ると冗長になるので避けますが、本当に一度読んで欲しい。ハズレはないくらいに言っても過言ではないと思うので。
吉弘鑑理と山崎吉家以外でぼくが好きな人物を挙げるなら、他には平安末期~鎌倉時代なら畠山重忠・北条政村、戦国武将であれば北畠具教・山内一豊・水野勝成、江戸時代以降であれば莅戸善政・伊達宗城・児島惟謙あたりかなと。探せば他にもいますが、調べずに出て挙げたのがこの8人でした。
途中持論を垂れ流しもしましたが、様々な角度で切り取って楽しめるのが歴史だと思うので、この機会に一度振り返ってみるのも面白いと思います。
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