なぜ感染症差別は無くならないのか
西暦2020年、時代は令和です。これでもかという程文明が発達し、誰でも自分の考えを世界に発信出来る時代になり、多くの人が声を上げ始めたことで、人権に対する意識はますます高まっています。女性差別や人種差別は勿論、これまで問題とされて来なかったパワーハラスメントなども人権侵害であるという認識に変わり、時代の変化に合わせて個々の認識のアップデートが求められています。
ところが流石に今やもう廃れただろうと思っていたある差別が、まだ根強く残っていることを最近目の当たりにしました。
皆さんもよく目にしていると思います。疑問に感じている人も多いでしょう。そう、「病気に対する差別」です。
何故かある特定の病気が偏見の目で見られ、患者が差別・迫害に遭うという事はこれまでもありました。HIVやハンセン病、また放射能に対する「被曝」も差別の対象となってきました。広島・長崎の原爆被害は勿論、近年では東日本大震災の原発事故の際にも差別はありました。
そして今年1月末から瞬く間に広がり、今も収束の気配を見せない新型コロナウイルスの流行に際し、感染者や発生源に対する差別や嫌がらせが横行しています。そしてそれは殆ど咎められることもなく野放しとなっています。
元々日本におけるコロナウイルスに対する過剰な反応は、「自粛ムード」がきっかけであったと思います。政府からの自粛要請、緊急事態宣言が発令された時「娯楽の為に出歩く事は悪」となりました。ネットだけではなく現実社会にも「自粛警察」が現れ、営業している店舗や施設が嫌がらせの張り紙をされる、県外のナンバープレートを付けた車がいたずら被害を受ける…等の事態が発生しました。観光地に集まったり、行列を作る人々を勝手に撮影し、SNSにアップするネットユーザーも後を絶ちませんでした。
「飛沫感染する、密を避けろ自粛しろ」と恐れられるこの感染症は、ある意味患者に対し「他人への迷惑を顧みず、欲望のままに娯楽に興じた結果罹患した無責任な人間」という印象を植え付けることになります。だれも病気になりたくてなる人など存在しないし、感染した理由は人それぞれであるにも関わらずです。遊び歩かなくても同居する人が感染してしまえば罹らずにいる事は困難でしょう。しかし個々の事情など全く考慮されることなく、「あいつは感染した」と批難の目を向けられるのです。
罹患したことを知りながら実家のある県外へ移動したある女性は猛烈な批判を受け、本名や実家を晒される被害に遭いました。
これまで差別を受けてきた病気の特徴としては、新たに認知され、治す方法が見つかっていない、万一罹ってしまったら手に負えずどうしようもない…。そんなところであったと思います。どんな病気なのかよく分からないけど、発病したら大変な事になる、そんな得体の知れない病への恐怖、自分は何としてでも罹りたくないという思いが「感染した他者を排除する」という言動に繋がっていくのでしょう。
差別する者の心の弱さが原因なのです。勿論感染した人に罪はありません。
「全ての事には因果があり、災いはおしなべて原因を作った者が存在する。
原因となった者はその責任を取り罰を受けるべきである」
という考え方が広く根付いているように思います。だから憲法で認められていないにも関わらず、私刑はなくならないのでしょう。
しかし実際のところ「誰も悪くない」という事柄は存在します。日頃からマスクを着用し手洗いうがい消毒を怠らず、人の密集する場所は避けるよう気をつけていたにも関わらず感染してしまう事もあるでしょう。
それはもう「運が悪かった」としか言いようのないことで、誰が悪かった訳でもありません。
重ねて言いますがなりたくて病気になる人など居ないのです。本来病人はいたわるべき存在です。決して咎めるべき対象ではありません。病に苦しめられている人を更に迫害するなんて、外道のやることです。
自分が感染した場合のことを想像して下さい。どのような経緯で感染したとしても、他人から差別を受け嫌がらせをされたら辛いし悲しい筈です。
罹りたくないのは誰でも同じです。自分だけが何としても感染しない為に、「絶対に罹らない」安心を確保したいが為に、他人を攻撃するのはやめて下さい。
感染しない為に特別なことをする必要はありません。手洗い、うがい、マスクや消毒等の推奨されている対策を自らが心がけていればそれで十分です。
必要以上に恐れないで下さい。恐れるあまり他人を傷つけないで下さい。
いつ終わるとも分からない、先の見えないこの状況で、決して他人と闘おうとしないで下さい。
私達が闘うべき相手は感染者ではありません。決してそれを忘れないで下さい。
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