「繊細さん」がきらいだった
繊細な物差し
近年、世の中には、アルファベットの略称で呼ばれる病気やら性質やらが多すぎる気がする。
何が言いたいのかさっぱりわからないし、アルファベットで略して中身を分かりにくくすることに意味があるのか、甚だ疑問を感じている。
書店でよく見かけたのが、HSPの文字。オブラートに包んで「繊細さん」なんて呼ばれることも多いらしい。
他人の感情に流されやすいとか、相手の顔色を伺いすぎるとか、誰でもそういう事あるでしょ。当たり前のことじゃないの?なんて思いながら、HSPの文字が控えめに書棚に並ぶのを眺めていた。
「当たり前」を自分の物差しで計ってはいけないというのは、よく口にされることだが、本当にその通りである。物差しのメモリや長さが他人とずれていることは往々にしてあるのだから。
かくいう私の物差しも、しっかりと人からズレていたようで。
職場の人間関係に悩んでメンタルクリニックに行った私は、晴れてきらいだった「繊細さん」と認定された。
HSPとは何ぞ
Highly Sensitive Person、簡単に言うと「刺激にとても敏感な人」という意味。
感受性が豊かといえば聞こえはいいが、なんてことないことで感情が大きく動いたり、会話に正解を探して何も話せなくなってしまったり、迷惑千万である。
どうやら病気ではなく気質のようなもので、割合としてはそれなりに存在しているらしい。
何となく感じていた生きづらさの正体に、名前がついた。
病気ではないから治しようがない。少しでも生きやすい自分との付き合い方を探していくしかないのである。
「繊細さん」がきらいだった理由
そんなの普通じゃん、と思っていた。
HSPの気質は、自分も持っていたから、普通だと思えてしまった。自分のつらさを棚に上げて、人のつらさを直視できなかった。
本に書かれている「繊細さん」のつらさを認めることは、自分がつらいことを認めることだった。だから、認められなかった。誰にでもあるでしょそんなこと、と突っぱねていた。
もし、友達や知人から相談を受けたとき、彼らの悩みを聞いたとき、「そんなの普通でしょ」と言ってしまいたくなったら。
それはきっと、自分も同じつらさを抱えているのだと、気付いてほしい。
繊細に生きる
そろそろ「繊細」という言葉がゲシュタルト崩壊を始めた頃だと思う。
「繊細さん」は、要するに周囲の環境から受け取るものが他の人より多く、それらの情報を処理して発信するものを決定するため、処理の間に自分の意思が負けてしまうような人なのだ。
私は。他人に嫌われたくない、と人の顔色を伺っては望まれる言葉ばかりを口にして、自分の言いたいことなんか全部しまいこんで、他人の感情の言いなりになって生きてきた。
だから、突然、
「あなたは繊細すぎたんです!人の感情を気にする必要はないし、言いたいことを言っていいんですよ!」
なんて言われても、23年かけて培われたの癖はそう簡単には抜けない。先述した通り、この気質と上手く付き合っていくしかないのである。
最近、全部言葉にするから言葉だけ信じろ、言葉以外のことは気にするな、と言ってくれた人がいました。本当に思ったことを何でも口に出してしまう、悪く言えばデリカシーのない人間です。
でも面白いことに、その子といるときは、その子の考えていることや感情といった確証のないものに振り回されずに済んでいるのです。
まだ、会話の正解を探そうとする癖は直りません。でもこうやって少しづつ、自分の言葉を口に出せるように、人付き合いの仕方を変えていきたいと思っています。
繊細な自分を捨てない。
他人の感情や周囲の空気に敏感なことは、短所じゃなくて長所にできる。
私は繊細なまま、人の感情のわかるまま、自分を大切にして生きていく。