長崎旅行記
旅行が終わった次の日、だらだらと過ごしているのだが15時頃になりそろそろ旅行記でも書こうかとなった次第。そのとき何を思い、何を感じたかという事は後になって振り返ってみると、その形は非常に曖昧である。というのも感情そのものが不定形だから。その不定形のものを形にしようというのだからある程度感情を浮き出したものを作ることは出来ない。そのところを了承していただければ。あと事細かに書けば膨大になってしまうので少し省略して書く。
当日朝6時に起床し、小松空港まで。小松空港から飛行機に乗ったことはあるかどうかは記憶にない。前日は仕事であったが午後から交代の社員に「朝はプロペラ機だよ」と告げられた。まさかまだプロペラ機が稼働しているのか、とその時思った。ジェット機に乗ったことはあったがプロペラ機は初めてなので内心わくわくした。飛行機までは地上から乗る(私が思い浮かべるのは、飛行機と直接通路を繋げるアレ)だったので意外だった。マッカーサーが飛行機から降りる感じ。飛行機の隣には誰もいなかった。大きな音を立てて、飛行機は発進した。思いのほかうるさかったが乗り心地そのものは良かった。プロペラ機で思い出すのが梅崎春生『幻化』の冒頭シーン。精神病の主人公が飛行機の油漏れを黒い虫の群れと言うシーン。『幻化』戦争を体験した主人公の戦後の虚無感を描いた名作。そんなシーンを思い出しながら寝た。ドラマ化もされたみたいなのでいつかは観てみたい。
飛行機は1時間半ほどで福岡空港に着いた。それから地下鉄で博多、電車で長崎まで行った。武雄温泉で新幹線に乗り換えたのであるが、隣に外人が座った。初日の目的地はずばり遠藤周作文学館。ここさえいければあとはもうどうでもいいという心境。今年は生誕100周年という事で企画展をしている。ついでに47都道府県でそれぞれ一番最初に来た人には認定証と記念品がもらえるという事であった。私は富山県代表として行かないわけにはいかないので少しでも早く行きたかった。そういう心理も働いて一応バスも出ていたのではあるが行きはタクシーを利用した。最初はバスで考えていたが電車での移動中考えが変わった。居酒屋で代行とか使ってる人間とか平気で高い金を出しているわけだし、折角長崎に来たのだから観光に多くの時間を使いたい。私は思い付きで行動する人間である。
不慣れなタクシーに乗り、遠藤周作文学館までと行き先を伝えた。そんなニッチなところ長崎駅からタクシーで行く人間などほとんどいないであろう。心配だったので場所大丈夫ですか?と付け加えた。運転手は「ええ、外海の方でしょ?大丈夫です。」と車を走らせた。「どちらから?」と聞かれたので富山県からと答えた。その後は他愛のない話をした。外海の方には年に居るかいないかくらいの頻度だそう。物好きしか行かないのだろう。途中「黄砂がひどいな。」とぼやいていた。普段どんなものかしらないのでわからなかったが、だいぶ景色がぼんやりしているそう。「いつもだと海とかはっきり見えるんですけどね。」。その後はぽつりぽつり話した。20年務めているが外海の方で昔道に迷ったことがある、コロナの時は酷かったなど。
タクシーには45分ほど乗っていた。これだけの時間タクシーに乗ったのは初めて。作家のエッセイなど読んでいると移動は大抵タクシーを利用している。やはり金持ちなんだな。料金は7910円。
もう興奮状態だった。急ぐ気持ちを抑え、外の景色を楽しんだ。外には2人ほど居た。こんなところに来る人もいるんだな、とぼんやりしていた。そして中の受付に入り料金を払う。受付の隣に来館者マッププロジェクト(日本地図)があった。私はこのマップの申請をしたいのですがと声を掛けた。そうすると受付の女性が「どこからですか?」と。私は富山県から来た旨を伝えた。女性は「ありがとうございます。わー、今日は和歌山からもいらっしゃたのですよ。うれしいです。」と喜んでいた。ああ、良いことをしたと私は謎の満足感を覚えた。と同時に旅の目的は達成された。広間に進むと笑顔の遠藤周作(写真)が出迎えてくれる。おもわずその表情に私の顔もほころんだ。遠藤さんもまずは笑うようにとエッセイでよく書いていた。けれどもそれはあまり実践できていない。だいたい顔が死んでいると言われる。笑顔というのはなかなか努力の要るものだ。客室乗務員などの接客系の仕事も笑顔の練習をするらしいから、やっぱり大事なんだろう。頑張ろう。
展示は遠藤周作の生涯、作品の変遷など100周年にふさわしいものであった。ここで語れば長くなるので多くは語らない。ただ一番心に残ったものだけ書こう。それは遠藤の友人原民喜が遠藤宛に送った手紙。「これが最後のたよりです。去年の春はたのしかったね では、お元気で・・・・。」。短い文の中に多くの感情が詰まっている。原は被爆体験をし、『夏の花』などの小説を残した小説家、詩人である。想像を絶する体験、戦争が終わっても断ち切れない想いが彼の中にあったのだろう。彼はこの手紙を送ったあと自殺した。遠藤は母の死や友人の死を体験しながら、その痛みを作品に反映させた。その痛みは時代を超えて私たちの心に響く。その遠藤のやさしい眼差しがとても好きなのである。
帰り際、遠藤の写真がまた来いよ、と言っているような気がした。それほどまでに近くて遠い存在だった。さようなら遠藤さん。また逢いましょう。
文学館を出ると15時位であったろうか。まだ日は高かった。私は地図アプリによると20分ほどで行けるという旧出津救助院へ向かった。
20分以上かかったような、かからなかったような、そこまで正確に時間は数えなかった。ただ坂道が多く、ただの山登り。そこそこきつかった。救助院がどのような施設なのかは調べていただければと思う。そこまで思い入れはない。写真の左にオルガンが見えると思う。シスターはこれを弾いてくれた。あと何か色々説明していたが頭の中に入ってこなかった。ただその白々しい(清純すぎるというのだろうか)説明の仕方に何か薄ら寒いものを感じた。私の心が醜いだけなのだろう。この人とは住んでいる世界が全く違う。そこには見えない壁がある。それだけが深く印象に残った。
救中助院を後にして、教会堂の写真を撮った。近くまで行く元気はなかった。30倍ズームができるカメラなので近くに見えるかもしれないが結構遠い。その後はド・ロ神父記念館や外海歴史民俗資料館を散策。中に入ったものの、素通り状態。
遠藤周作文学館のほかにもう一つ行きたい場所がここ。遠藤周作がこの場所のために「人間がこんなに哀しいのに 主よ海があまりに碧いのです」と碑を建てた。この地を舞台にした遠藤の代表作『沈黙』は江戸時代のキリシタン弾圧を描いている。キリシタンは理不尽ともいえる仕打ちを受ける訳だが、おそらくこうした心境だったのだろう。人間の哀しさは今も続いている。そして海は静かに横たわっている。主もまた海のように静かに、人々の哀しみをじっと見守っているのだろう。
遠藤周作を知らなければこのような地に来ることもなかった。
何が私をここに導いたのだろうか。
私はふもとの家々を眺めたり、山を歩いて17時前の長崎駅行のバスに乗った。バスの中でうとうとしていた。バスの料金は790円。タクシーの10分の1だった。
夜は思案橋で卓伏料理を食べた。伊勢海老、ウニ、クジラ、角煮など高級な食事だった。食後はホテルに戻り、風呂に入って寝た。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?