都合のいい女
──私はあなたにとって都合のいい女だから一番なんでしょ。
突然放たれた彼女の言葉は今になって思えばもしかしたら確信を突いていたのかもしれない。
──そんなことはないよ。僕は、僕は、そういう風に思ったことは一度もないよ。
しどろもどろになった僕はスマホをいじる彼女の姿をどこか遠い国からやってきた人のように眺めていた。いままで喧嘩もしたことなく、おだかやかな日々を過ごしてきたというのに。なぜこんなことを言われたのか僕にはわからなかった。僕は動揺しているにもかかわらず彼女は平然としている。
──その、僕にどんな落ち度があったんだい?
──そう善良ぶるところかしら。
──どうして善良なことが…。
──ぶる、こと。善良でもなんでもないくせに。
──○○は疲れているんだよ。今日何かあったのかい?
彼女は何も答えずソファに寝そべってスマホを眺めていた。僕は理不尽な仕打ちに動転していたが、それは次第に怒りに転じた。だがここで怒り狂ったところで彼女の指摘した通りになるだけだから、なるべく冷静になるように努めた。ここであれやこれや自己正当化しようとしても無駄なことだと悟った。けれども言いたいことは言わなければ気が収まらなかった。
──もしかしたらそうかもしれない。○○の言うとおりかもしれない。しかしね、中身が伴っていなくても善良であろうとすることの何がいけないのだろうか?形だけでも真似していればいつかは本物になれる日が来るかもしれない。僕はそうありたいから、そうあろうとするんだよ。よりよく生きようとすることの何が悪いのかわからない。
僕はそういったものの何も答えない。スマホの画面に真実があるのだろうか?もう彼女とわかりあえることはできないのだろうか。少しして彼女が口を開いた。
──じゃあ、私は善良なの?そもそも善良って何?最初そんなあなたの表面的な部分に惹かれた私が馬鹿だった。優しいだろうな、素晴らしいのだと思ってた。私もあなたみたいに良い子を演じて、あなたに見合う人になるように頑張ったわ。けど、次第にわかったの。結局あなたも私も空っぽで、本当に大事なものを見失ってたって事。だからあなたとのお遊びはこれまで。本当の自分を見つけて。
──なるほど、なるほど。無理をさせていたんだね。確かに無理に背伸びするのはよくないことかもしれないね。そのことは悪いと思っている。けれど僕は人間の可能性というものを信じているんだ。善くあろうとすれば善くなれる。常に良くなれる可能性があるんだ。
──あなたはそれでいいかもしれない。聖人でも目指していればいいじゃない。
彼女と目があった。僕を軽蔑するような、冷たい視線が降り注ぐ。僕は納得いかなかった。どうして、どうして…。
──別に聖人になろうとしているわけじゃ…。
──それもそうね。あなたは自分の感情に蓋をして、人の目を気にしてるだけ。他人が怖くて怖くてしょうがないだけ。私もそうだった。けどそれは今日でおしまい。これからは私を生きていくの。
──…………………。本当の自分なんて存在しないよ。あると思うのは幻想だよ。
──哀れな人…………。
今度は哀れむような目でしばらく僕を見つめた。20秒ほどそうしていて、彼女は身支度をはじめた。僕はどうにもこうにもならない現実を前に立ち尽くしていた。頭の中で何かがぐるぐるしている。それで実際に何かを考えていたわけではない。引き留めようとすればできたかもしれない。けれどももう目の前には誰も居なかった。最初から誰か居たのかすらわからない。
朝になってようやく何が起きたのか理解した。そして大事な人を失った喪失感だけが胸の痛みと共に寄り添っていた。(終)
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