日本語教師が外国語を学ぶことのメリット
久しぶりにインドネシア語の勉強を再開した。
私は2021年までの3年間インドネシアのスマトラ島にいて、周りには日本人ほぼなし、家を借りることから日々の生活までインドネシア語漬けの生活で、必然的にインドネシア語を習得した(超スパルタイマージョン教育!)。
でもやはり日本に帰ってきて、インドネシア語を全く話さないという状況になると、どんどん言葉を忘れていっている。
もともと外国語を勉強するのは好きだが、最近、育児や仕事に追われて自分のための時間を全く取れていなかったので、思いつきでitalkiでインドネシア語の先生を見つけ、1週間に1回、インドネシア語を話すことにした。
今日で3回目のレッスン。
学習者側になってみて、気づくことって本当に大きい。
あー!それ先週教えてもらったばっかりの言葉だったけど、出てこなかった〜!という悔しさとか、
んんん?この表現よく分からん・・・。説明聞いてもいまいちピンとこない。けど、ここで会話の流れ止めるのも微妙だしな・・・ま、いっか。というモヤモヤ感とか、
お?先週よりもちょっとスラスラ言葉が出てくるようになったかも?という小さな達成感とか。
私にとって、外国語の勉強をするというのは、自分の趣味のためという意味合いももちろんあるけど、「学習者」という視点からことばの学びを捉え直すすごくいい機会でもある。
「日本語教師になりたいんですけど、外国語できないとだめですか?私英語が苦手で・・・」と聞いてくる人が結構いる。
そう聞かれた時、私はいつも
「大事なのは外国語が「できる」「できない」ではなくて、外国語学習者としての経験の振り返りができることじゃないかなあ」
と答えるようにしている。
「外国語を話すことが苦手」と感じている人は、どういうことが難しくて、外国語を話す時に自分はどういう気持ちになるのかが自分で分かっているので、学習者に寄り添った教え方ができる。
また、自分なりのやり方で試行錯誤しながら外国語を上達させた人だったら、その経験を学習者と共有し(そのやり方をその学習者がやるかどうかは別として)アドバイスもできるだろう。
「日本語教師って日本語で日本語を教えるんでしょ。だから別に外国語できなくてもいいんでしょ。」
っていうスタンスの人は私はあまり好きじゃない。
そういう人に限って、学習者がちょっとミスをしたり、教えた(つもりの)言葉を覚えてなかったりしたら結構厳しく注意したりしがちな気もする。
日本語母語話者の日本語教師は、どうしても学習者とのパワーバランスにおいて上の立場になってしまう。だって、「日本語ができる」し、「先生」だし。日本語教師になりたてのころはそこに無自覚だったなあ、と振り返って思う。
自らが母語じゃない言葉を学んでみて気づくこととか、海外に住んで自分がマイノリティになるとか、そういう「学習者としての経験」「マイノリティとしての経験」ってことばの教育に携わる者として大切にしていきたいなと改めて考える今日この頃です。
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