自由・平等・友愛
フェミニズムは広くリベラリズムの一つであると思うので、」というツイートを見かけたのだが、私は何故か疑問に思ってしまった。そうなの?と。
また以前「パターナリズムとフェミニズムの地平はその薄まりつつある地点においてつながる」というような意味のことを著名な学者が言っていてそのときもそうなの?と。
私はこれらの言葉を最近知ったという学問とは縁遠い生活をしてきたものだけど、私の歩んできた道々にこれらのものは石ころだったり花だったり橋のない川だったりして、確かに生活の中に顔を出していたものたちで、私はそれらを愛でたり蹴っとばしたり溺れかけたりして今ここにいるのだ。
これらの横文字の正確な意味はわからないけれど、自由・平等・友愛という言葉は私なりに考えられるので、忘れないうちにここで整理しておきたいと思いこのnote を開いている。
まず自由だ。砂漠を彷徨い歩いているものが水を求め蜃気楼に向かって歩き出すように、私は自由を渇望していた。しかし、60年経って今気づくことは、私が欲していたのは自由ではなく水だったのだ。水のある土地にいたなら殊更自由を求めなかったかもしれない。フェミニズムは自由を求めている、と思われているのかもしれないが私から見れば、自由ではなく平等を求めているのだと思う。平等でなければあるものの自由は他のものの苦役となりかねない。だから苦役を科せられたものは鎖を解き放ってほしいし、自由になりたいのだある。
しかし土地の所有が認められている今日、平等はなかなか絵に描いた餅でむづかしい。ひび割れた旱魃の土地に生まれたものが他の土地に行く自由を求めることを、わがまま、身勝手、と言い苦役の土地に縛り付けようとする力をパターナリズムというのではないかと思う。それがあなたの幸せなんだよ、良かれと思って言っているのだよ、と。
では友愛とはなんだろう。すぐ思い出すのが中村哲さんだ。不平等を平等にするために助力を惜しまないこと。
世の中を分かりにくくしているのは、一見パターナリズムは愛の仮面をつけてやってくる事だ。だから私たちはパターナリズムの枷から逃げ出すことが困難なのだ。
不平等を平等に導く努力をすることは多分、パターナリズムと闘うことではないだろう。友愛の種を個々ができる限り撒き続け平等を目指し、皆で水を共有するならば自由の花が咲くだろう。
急ぎ、頭に浮かんだことを取りまとめてみた。年なのでこうしてメモっておかないと忘れてしまうので。後から読み返せば色々恥ずかしい文章であるかもしれないが、これはこれで公開しようと思う。