「香良洲神社」ひっそり明治が佇む
*今回の記事は有料であって、半分そうでないように作りました。見聞録ではありますが有料部分を作っておりませんので、お気軽にお立ち寄ってご覧いただければ幸いです。
お伊勢詣りをして加良須に詣らぬは片参宮!
皆さん、ご存じ「お伊勢詣り」といえば伊勢神宮。その主祭神は天照大御神。もはや、語るに及ばず、言わずと知れた神様でしょう。
では皆さん、「お加良須詣り」をご存じでしょうか?急に、「え。なに。」ってなりますね、恐らく。私もnoteでこの名前で検索してみたました。2件ヒットしました。多くの中の一つとされているだけで、それ単体では全くありませんでした。それから、知り合いに頼んでちょっとインスタで見てもらったら、とっても少ない。それはもうびっくりするほど。
話が脱線しましたが実は、天照大御神の妹神の稚日女尊(わかひるめのみこと)をお祀りした神社です。この女神様は婦人の守護神とされています。また、機織りとの関連から紡績に工芸や、「繋げる、離す」ということから縁結びや縁切りなどの謂れや、伝説から海と航海の人からも信仰の篤いようです。
昔は天照大神と稚日女尊を参って初めて「両参り」とされているとされていたそうです。多くの方もその為にわざわざ伊勢と津の両方に行ったとか。が、どうやら解釈が内宮と下宮の伊勢の二つを参ったら「両参り」にすり替わりつつあるのか、香良洲神社の参拝に訪れる人はめっきり激減したようです。私が行ったときにも誰もいませんでした。でも、境内は静かできちんと手入れがされてて綺麗でした。社務所の方の話によると、地元からは全然来ないけど休日になると東京からとかの遠方の人が来てくれることがあるんですとの事でした。内心、なぜに????と思いましたが、それこそ、神のみぞ知るだったので、とりあえず相槌うってそのままスルーしました。
香良洲神社について
あらまし
カラスとはあのカラスのことです。神社の成立の伝承も神様も不思議な話の数々も大変興味深かったです。最近も不思議なことがあってその方とのご縁も続かれているとのこと。香良洲神社は伊勢神宮と同じように「式年遷宮」という、20年に1度、本殿と拝殿を建て替える儀式や、「中遷座祭」という10年に1度、ご神体を仮宿にお預けしてご本殿を掃除する儀式があるそうです。特に最近「中遷座祭」があったとのことで、管理されている方々からその祭事やその決まり事などについて色々教えて頂きました。管理されている人がいらっしゃれば、「神域」もお参りさせていただくこともできました。
神様と成立(なりたち)の伝承
時は飛鳥時代。一志の浜洲に夜な夜な御神火が見え、里人が畏れ騒いでいたところ、一志直青木という人が神の御心を仰ごうと、浜に出て御神誨を乞うと「吾は生田の長狭に坐す稚日女神である。姉神の天照大神の坐す伊勢のこの地に鎮まりたい」とのお告げがあり、青木は恐懼直ちに生田神社より勧請し、祠を造営し今でも奉られているとのことです。
生田神社の稚日女尊に関しては、神功皇后が新羅征伐の後、難波の海(大阪湾)が荒れて船が乱れた時に、軍船を導いて無事上陸に至ったので住吉、永田の神と一緒に生田神社に祀られたそうです。
不思議な話
その①
社務所の方が普段は閉められているご神域に案内してくださいました。お約束として、神域は絶対撮影禁止と、お入りとお帰りの時は御神体に一度頭を下げるとのが習わしとのとこです。これより先はパワースポットになっているそうです。
さて、ここで伺ったお話。このパワースポットでお詣りされた60代のご夫婦の奥様。この方はなにやら腰を悪くされて長い間困られていたとの事でした。それがこのパワースポットであるものに触れてからだんだん回復になられて、再度お詣りに来た時にはすっかり良くなっていたというのです。感謝を込めて今でもよく来ては境内のためにできる事をしてくださっているというのでした。私が参拝した数日前にもいらして掃除をされていたそうだとか。
その②
本殿と拝殿の屋根は全て茅葺で作られていました。注連縄のあの植物です。伊勢神宮もその屋根で作られています。茅葺は物持ちも難しく、手入れに人手が必要になるのだそうです。固いと言っていました。式年遷宮でそれらもすべて新品に変えるのだそうです。香良洲神社は世知辛いことに、費用は全て氏子、つまり地元の方が負担されています。しかも人口もかなり下がって負担も大きかったのとか。
今は完全に銅の茅葺ですが、一時は一番地になる部分は銅、茅葺は通常の半分にしておられた時があったそうです。そんなある日、雷が本殿の千木(ちぎ)に落ちたそうです。千木とは、屋根の両側に交差させた長い木材のことです。ですが、火は上がりませんでした。なぜか。なんと、銅が熱を吸収して、広がらなかったのです。また茅葺で表面が酸素に触れる面積がなかったため、煙だけが上がっていたというのです。木が内側から熱されていたため、煙だけで済み、ご神体も安全に運び出すことができたというのです。めでたしと言いたい所ですが、本殿が燃えて遷宮の為の費用も更に大きくなってしまいした。額も賄うのに大変なものでしたが。
この先は参拝した時に、お宮の中の方に聞いてみてください。予想が着かれる方はもうお分かりになったかもしれませんが。
より多くの不思議な話を知っている宮司さんは水曜の午前以外ならいると思うとのことだったので、気になる方は日にちを調整するのもありだと思います。
中遷座祭
この祭りは祭りというより祀りというような気がします。
準備として、祭事に参加するものは1週間前から4つ足の動物の肉を食べてはならない、という決まりがあるそうです。なので、一週間は牛や豚を口にしないという生活を送るのだとか。皆さんはどうでしょう。ちなみに魚や鳥などはOKのようです。聞いててそれはそれで健康になりそうだなと私は思いました。概ね同意されていましたが、お肉は食べたいと熱弁されていました。終わったらその禁止も向こう10年は解放されるそうです。
開始はおよそ夜の8:00ごろから、とのこと。
祭事中は「喋ってはならない」「身にまとうものは全て白一色でなくてはならない」「途中で抜けてはならない」という暗黙の規約があるそうです。これは伊勢神宮でも神様の住いを掃除される時は同じとのことでした。このルールいつ終わるかもわからないが一夜にして済まさなければならないと言われて、かなり衝撃でした。目に見えない所での神様へのご配慮感服しました。
明治18年という転機
お社
神社そのものは飛鳥時代から建立され、約1400年の歴史があります。しかし、それまでは「稚日女尊(わかひるめのみこと)を祀る神社」という認識できちんとした名前はなかったようです。というのも、大きな境内を持っているだけで、ほかにも町内に小さな神社が11社あったそうです。しかし、神社合祀という明治末期の令によって、神社の数を減らすように命じられたことでその小さなお社をすべて一か所の神社に奉るというようにせざるを得なかったようです。なので、「小香良洲社」という名前で11の神をぎゅうぎゅうにまとめています。ただ別で「稲荷社」(宇迦之御魂大神)は慶応元年、「大国社」(大国主命大神)は安政3年、「浜の宮」(大綿津見神)年代不詳、の3社はこじんまりとしながらも各々のお社があります。
名前
この「香良洲神社」という命名は東郷平八郎によって名付けられたとされています。社務所兼休憩所に参拝された写真と命名された時の実物の書名状というものが飾られていました。写真って凄いですね。
実際、結構カラスが境内で見受けられました。わりとあちこちで。また、Wikipediaにも「相殿神の大歳神の子が香良洲の地を訪れた時、地主神が田人に牛肉を食べさせているのを目撃して怒り、田へイナゴを放った]。イナゴはイネを食い荒らし、困った地主神が大歳神に伺いを立てると、「麻枝をもって挊(かせ)を作り、それ使って苗代の苗を払い、葉で掃き、天押草(あめのおしぐさ)を押し付け、烏扇であおぎ飛ばすように」と言われたため、その通りにすると、イナゴ被害は収まった。」というので烏で扇を作ったのが一説にあったり、神武天皇をカラスが道案内したことから勝利の鳥を導くとして、そこから「香良洲神社」としたのかもしれません。町名が香良洲町になる前は「矢野村」と呼ばれる地域だったそうです。
「東郷平八郎」
詳しい生い立ちや経歴は東郷平八郎に任せます。ざっくり言いますと日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦などの超ド級の戦争で日本に勝ち星を捧げた凄い人です。先に申した神社の名付け親でもあります。この方はここに参拝したのが関連したのかはなんとも言えませんが、「忠魂社」第一次世界大戦から太平洋戦争の間に戦争に参加されて亡くなった方を鎮めるお社と、「日清・日露之碑」の慰霊碑がありました。
最後に
初めて訪れてこんなに情報量の多いところも珍しいなというのが正直な感想でした。明治の中でも戦争真っ只中のピリピリした時に在った、また神社に纏わる法令でダイレクトにその打撃を受けざるを得なかった、でも元の社は飛鳥からあったなど、情報が問答無用で押し寄せてきます。
伊勢はちょくちょく行っていましたが、香良洲は全く知らなかったので私も「片詣り」どまりでした。せっかく、行けたのや社務所さんの方々の話も伺えたのでここに記録します。
伊勢のお詣りに興味のある方は「両参り」を検討してみてはどうでしょうか。
香良洲神社のアクセス
津市香良洲町3675-1
059-292-3930
公共交通;近鉄名古屋線「津駅」から「香良洲公園行」バス約35分「香良洲神社前」すぐ
車;伊勢自動車道「久居IC」から車で約20分
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