どこまでの影響力を持っているのか
小さな範囲内だけの話であれば、自分の立ち位置から判断できることはあるかもしれない。
しかし、大きな枠で見ると自分が持つ力がどのように反映されるのかわからない。
最近、どの意識で物事を捉えているのかがとても気になる。
意識する基準っていうのは、結局のところ自分自身で決めたらいい話と言われたらそれで終わるのだけれど、その基準を置いた確信する材料みたいなものが欲しい。
要するに自分自身の選択に対して不安ということも言えるし、他人が貫くエネルギーに対して興味がある。
一人の人間がどのタイミングで息を引き取ったとしても、世界は回り続けていて、自分の存在なんてそんなものという捉え方。
実際のところそうだし、影響力を持っていたとしても個人の生活があるわけで、その先が続いているということ。
とはいえ、生活する上で自分勝手すぎることというのは良くないとされていて、そこには大きな力があるんだとされる。
捉え方がぐちゃぐちゃになっていることに疑問を抱いている。
一人でできることなんて知れているけれども、ある事柄については影響力を持ってしまう。
その判断基準が人それぞれにあって、意識のバランスが異なっている。
たった一人の人間ではあるけども、社会の中にいる人間としてのパワーバランス。
いちいち反応しなくて良いこともあるけれど、無知すぎて呆れられるという視点もあったりする。
全てを知ることはできないのに、知っている方が上だと判断される。
知らなくてもいきていけるというにも関わらず、人間としての価値観を押し付けられる感じ。
モヤモヤするのは「当たり前の基準」というのがよくわからないということなのかもしれない。
しないよりはした方がいいという曖昧なものが溢れすぎていて、どのように判断すれば良いかわからない。
それに加えて、自分自身がどう思うかという認識をする機会がなくて、流れるようにいきていくこともできるところ。
いきづらさにも繋がる話にもなってくる。
個人の持つ力が及ぼす意識の捉え方。行動に対して注意することの基準。また、その設定の高さによって人生レベルで道のりが変わってくる。
あまりにも低すぎる自己肯定も辛いものがあるし、高すぎると変人にもなりうるこのバランス感覚。
どういう人間でありたいかということが定まっていないことによる不安感が、日々の選択においてぶれる原因となっている。
小さいコミュニティでも大きなコミュニティでも、自分一人の行動というのは変わらないものなのかもしれない。
自分自身がこう見られたいという欲求により、歪んだ価値観が生まれてしまうこともあったりする。
とはいえ、淡々とすぎていく毎日に疑問を抱いたとしても回り続けてしまう自然界の法則は備わったまま。
どういったことを貫きたいかという強さが魅力的に映ることもあると思う。
きっと、自分と向き合った時間の先は、堂々とした力強さが表れているはず。
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捉え方のバランスというのは人それぞれである。しかし、どういった人間を貫きたいのかということは忘れてはいけない。
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