抜け出したいからどうでもいいや
時々やってくる不安に対して、どのように対処するのがいいのか未だにわからずにいる。ずっと不安の繰り返しで嫌になるし、解決してもまた何かやってくるし、実は解決していなかったりして無限に続いてる。
ある人は、恐怖を味わうためにここに来たのだという。負の感情があるからこそ、その分の楽しさが味わえるというのもある。恐怖感は身を守るための愛のメッセージだったりする。
お化け屋敷やジェットコースターを好むのは、未知の恐怖感にわくわくするというのがあるからこそだ。
そういった話はあるとして、この苦痛を何度も味わいながら楽しみを見出して最終的に散るという行為に何があるのか。
頑張って積み上げたものも、何もかもなくなるという上で今この不安に飲まれる必要性ってあるのだろうか。
開き直るというか、そんなことに対して焦点を当てることが大事なのか疑問に思ってきた。
意味を見出すことに意味があるのか。
人は何かと意味づけをしたがるところがある。その意味を探すことにより苦しくなるならどうでもいいのではないだろうか。
しかし、意味がないと活力が湧かないのも事実である。
ここに対して程よい意味づけができなくて、行ったり来たりを繰り返している。ちょうど良い回答が見つからない。
当たり前に過ぎ去っていたことが実は当たり前ではなくて、少しづつ自分の時間はなくなっている。
いつかやろうとしていたことは今からすべきであり、好きなように生きることが良いとされる。
しかし、当たり前に過ぎ去っていた時も生きていたし、みんな好きなように生きていたんだ。
つまり、気づいたところで現実は虚しいだけであって、ずっと不安はそばにいるのである。
前からそれはずっといたし、意識すればすぐに駆けつけてきやがる。
そこを通り越すには、どうでもいいやっていう感情を持つしかないのではないだろうか。
いや、そういうもんやで。気にせず遊んだらええんやと。そういうことなんですか。
それでいいのだろうか。人生をもっと充実させるには他に何かあるのではないだろうか。そんなことを考え出すとまた広がってしまうんだよな。
良いものにしようとすることについては前に書いた
どうでもいいんだ。やりたいようにやれ。
結局これが今の最適解だ。現実を良い方向に変えるべく頭の中で作戦を練ったところで、行動に移さない限り何も変わらない。
不安が足かせとなっているのであれば、つけたまま歩くしかない。
できる限り、重りをなくして軽やかにして生きたいところをあえて一緒に歩いていく。
それがその人のファッションとして、面白いものをなっていく。
これからは堂々と引き連れて歩こう。どうせいつかは外れるんだから。
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傍観者は難しく考えず、ただ眺めるということにより穏やかな心を保っています。そういう不安もあるよねと眺めていれば良いのだと思います。
傍観者の戯論
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