傍観者の始まりが全てを物語る
傍観者になりたいと願うことは悪いことなのだろうか。
人は自分が当たり前だと思っていることを全員が当たり前だと思うことがよくある。当たり前という曖昧な枠によって縛られることもよくある話だ。
傍観者という概念に人はどうのような当たり前をつけているのだろうか。人を観察することが好きな人間にとって、傍観者という立場は良い印象だろう。
しかし、ある事柄において傍観者でいると何もしていない人間とも言える。この場合、傍観者でいることは悪い印象だろう。
能動的であるか受動的であるかの違いなのだろうか。
「いつもあいつは傍観しているだけだ。みんなが大変な時にあいつは何もしてくれない。こっちは目の前の作業で大変なのに」
「みんなと一緒に踊った方が楽しいよ。見てるだけじゃつまらないでしょ」
「何もしていないなんて退屈じゃない?実際に体を動かしてる方がやってる感じしてるでしょ」
傍観者は当事者ではない人間からすると何もしていない人間になってしまう。それがある意味受動的であると判断される。
しかし、傍観者にとってはそのポジションが最適なのだ。
「作業をする前に、全体を把握してから今何をすべきなのか把握してから取り組もう」
「みんなが楽しんでいるのを見ているのが楽しい」
「のほほんとすることが一番のリフレッシュ」
演者だって、見てくれる人がいないとただ踊っているだけのものになる。観客がいるからこそ成り立っているとも言える。
話を変えて、自分の人生の傍観者になるなという話がある。
傍観者の人は、自分の人生さえも傍観者になっている。つまり、自分の人生なんてこんなもんでしょという、枠を設けて自らを主人公にしないような立場だ。
世界を傍観し、自分の人生さえも傍観する。
果たしてこれに意味などあるのだろうか。
ただただ眺めている。時に任せて流れるように生きている。
目の前に現れた現象に対しての反応を楽しむ。
人生ってそのような生き方が当たり前なのだろうか。
この時代に生まれたから、今の当たり前を当然のように受け入れ、自分自身がどう思うかなんて気にもせず、これが普通だからと生きていく。
果たして、傍観者になるのはどうなのだろうか。
変えられない自然の法則はあるだろうけど、自分の人生のシナリオは変えられると信じている。
傍観者になりたいという傍観者の戯論を吐き出すことによって、形成される未来が面白いクリエイティビティを発揮することをここに願う。
傍観者でも、自分の人生だけは傍観するなよ。
いつかじゃなくて、今この瞬間からしていかないといつまでたっても変わらない。自分が好きなポジションを作ってこれからの人生を共に生きていこう。
傍観者の戯論
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