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傍観するだけで心が軽くなる


今の現状は人それぞれ違うにしろ、日々生きていると本当に様々な出来事にあふれている。実際の出来事はただあるだけなのだが、人の数だけの解釈があり、その人の現状によって大きな広がりを持つことになる。


全ての物事に対してただ傍観するだけでいい。


起きてしまった出来事も、周りで起きている出来事も、自分から溢れ出てくる感情でさえも、ただ傍観するだけでいい。



「あぁ、やってしまったなぁ」

「みんな何か騒いでいるなぁ」

「今めっちゃ怒り狂ってるなぁ」

「全て投げ出してどこかに行きたいなぁ」



それらのこと全てに対して、ただ傍観する。自分は今どういう状況なのか客観視するということ。客観視しても、そこに自分がどう思うかは繋げなくて良い。ただあるね。そういう状況ね。というふうに確認するということ。


人は全ての物事に対して、ついつい色々なことに繋げがちだ。


1つの現象に対して、あーでもないこーでもないという議論がされる。これは、どういったところに目的を置くかによって話し方は変わってくる。目的もなく、ただの雑談をしているのは永遠に到着しないだろう。


物の捉え方というのは、人の数だけあるといってもいい。その人の過去でできたフィルターを通して物事を見ているのだから、違ってきて当然なのである。そして、その伝え方も人の数だけあるのだから、それはもう別のものと言ってもいい。



とはいえ、ある程度「こうあるべきだ」「こうしなければいけない」「普通はそんなことはしない」などと言った枠が存在してしまうのも事実だ。

そして、「こうあるべきだ」に反対する人たちも出てくる。「まだ、こんな認識があるなんて信じられない」「こういうのがあるから生きづらいのだ」みたいな普通というのを外から見る意見の存在もいる。

ざっくりすぎる言い方になるかもしれないが、この絡まりが今の生きづらさの1つだと言える。終わることのないお話から、逃げ道のない閉鎖感に襲われ、不安に包まれるのである。



どんな立場であれ、1つの現象にはいろんな面から捉えることができるので、どちらが良い悪いというのは実際その人の主観でしかない。とはいえ、様々な現象に対して声を上げているというのは、これから生きやすくなるための過程だと思う。

世界の現状は、そう言ったものがあらわになっていて混沌としているとも言えるが、この認識を傍観していれば良いのだ。



先ほど述べたように、人は色々繋げてしまう。

自分が手を加えれる範囲外のことまで気になりだして、どうにかしようとしてしまう。そこをただ傍観するということを意識すれば、自然と心は軽くなっていく。大きな事柄に対して、徐々に傍観していき、少しづつ範囲を狭めて、自分の感情でさえもただ傍観する。


「そういうことが起きているんだ」

「そこに存在しているだけ」


今は安心だということで心おだやかになっていく。そして、動きだしたい時に動き出せば良いのである。その気持ちがこれから大事になっていく。


現状に振り回されて、絡まりまくっているのではなく、ただ傍観する。傍観した先の本当の糸で編んでいけば良いのである。




傍観者の戯論


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