人の活動源は何なのか気になる傍観者
人は何によって動かされているのか気になって答えを探すのだが、結局全ての回答が虚しく終わってしまうので生きることへの絶望を感じてしまう。
今までのいい学校に行って、いい会社に行くというのはもう言われ尽くした話であって、その次のよく見られたいという承認欲求的な話も聞き尽くした。好きなことで生きて行くというところに行き着いて、今は自己実現によって生きて行く時代。自ら価値を生み出して行くというところにまできた。
しかし、今までのいい学校に行くことやいい会社に行くことが果たしてダメなことなのだろうか。みんながそれぞれにやりたいことをするというのが、一人でできることであれば組織に入るということは違う努力だったと言える。とはいえ、一人で黙々と作業をするのが好きな人間とみんなで何かを作り上げるのが好きという人間がいるのも事実だ。
つまり、みんなで大きなことをしたいというのもまた自己実現の形であり、今までやってきたことは決して間違いではない。もちろんインターネットによって個人が持つ影響力は上がるため、組織に入る必要もないという言い方はできるし、これからは個の時代だと叫ぶことも理解できる。
ここで言いたいのは、いいところに行くというエネルギーと個の時代だから自己実現して行くというエネルギーは似たようなものなのだと言いたい。
よく見られたい、変に思われてたくないからいい人を装うという仮の姿もそれは自分であって、何かを成し遂げたいというのもまた自分なのである。
結局エネルギッシュに活動している人間にとってフィールドが変わるだけで今までの信念は変わらない。より一層研ぎ澄まされていくという認識が良いのかもしれない。本当に自分が望むものを見極めてそれをしっかり掴み取って行く。
つまり怠惰な人間にとって、この状況はただ辛い現実となってしまうのはあり得る話だろう。
現実から目を背けてネットに逃げてきて、自分の居場所を探していたのにもかかわらず、そもそも逃げ続ける人生においてただ虚しい現実を突きつけられる。
ネットによって他人の輝きを見れるため、自分の何もなさに絶望して行く。しっかり現実と向き合い、自分の幸福の追求はしっかりとしていかなければならない。
何も昔から変わっていない。表現している人はしていたし、縛られながらも自己実現している人はいたということである。
今まで傍観者だった人間にとって、このままただの傍観者でいるというのはこれから先暗い未来しかないのかもしれない。人の動向を見るだけで自分は何もせずただ眺めているだけなのだから。
自ら価値を生み出すというところを引用して、傍観者と結びつけるのだとしたら、傍観者なりの視点を発信して人に新たな視点を提供するということだと思う。物事の捉え方を増やすことは、心を軽くするには必要なことだ。
話を戻して、人の活動源が何なのか気になる傍観者というタイトルだ。
山登りをしている人を眺め、山を眺め、周りの草木を眺め、時に蝶々をも眺めながら生きて行く。これは穏やか極まりない居心地の良い生き方である。しかし、その居心地の良さに溺れて置いてかれるのも時間の問題なのかもしれない。時には山の眺め方や蝶々の眺め方を人に伝えるというのも必要なのかもしれないと思う。
果たして傍観者になりたい人間にとって、これは傍観者と言えるのかはわからなくなってくる。
行き着く先は同じだから、自分の好きなように生きてもいいというところで、これからは遊べばいい。しかし生きていけないという。矛盾した心がまたやってくるのである。
人は何によって動き動かされて今この瞬間のことをしているのだろうか。ただ生きているから生きているという回答も自己実現しているという回答もこの世は儚く散っていくという意識において虚しい気持ちになってしまう。
人の活動源は何なのか......。
自分から生まれる小さな赤いワクワクの炎を頼りに、価値創造をこれから生み出して行く。その未来が明るいことを祈って。
傍観者の戯論
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