
「そのままで良いんだよ」は優しさなのか
わからない。
ただ、僕はあまり良い思い出がない言葉だ。
この言葉が使われるときは、励ましや慰めのシチュエーションだったりするけれど、僕が過去に言われたときは「ブレーキをかけられたシチュエーション」だった。
数年前に、同じ職場で付き合っていた彼女がいた。
当時、僕は仕事の結果を出し続けることに躍起になっていて、日頃から色々な挑戦を画策していた。
忙しさは日々加速していて、彼女との時間も取れなくなりつつあった中、久しぶりに同じタイミングで仕事が終わり、彼女と夜ご飯を一緒に食べることになった。
場所は今でも覚えている。横浜みなとみらいのクイーンズスクエア内にある、落ち着いた雰囲気のダイニングでのディナーだった。
店内は暗めの橙色の照明で、窓ガラスに向かって作られた席に座った。久しぶりの2人の時間に彼女は浮き足だっていた。
ガラスの向こうには青白く光るビル群や、極彩色のように色姿を変える観覧車が見える。東京湾の水面がその光をゆらゆらと反射していた。

思えば、久しぶりに一緒の時間を過ごしていた気がする。
同じ職場だからこそ、仕事の話にはなかなかならない。というよりお互いが仕事の話をなるべくしないように意識し合っていたような気もする。
次の休みの日にここに行きたいだとか、彼女の友人の近況だとか、そんなとりとめのない会話をしつつ食事をしていたとき、僕のスマホが通知で光った。
「**が、写真を送信しました」
さっき、部下に「終わったら写真で報告して」と伝えていた件だろう。軽く一瞥して通知だけを確認し、中身は見ずにスマホの画面を下にするようにひっくり返すと、彼女は言った。
「誰から?」
「ああ、**だよ」
「...。最近、仕事頑張りすぎじゃない?」
「そうかな?」
僕はそこまで無理をしている自覚は無かった。ただ、彼女への時間的キャパシティは、どんどん無くなっていっていたことは事実だ。
デートの間隔も空いてきていたし、職場で軽く話すだけで、まとまった時間を取れていなかった。
彼女からしたら“そういう意味“も含んで言っていたと思う。
「頑張りすぎてるように見えるよ」
僕は軽く相槌のような音を返す。
少しの間を空けて、彼女は言った。
「ありのまま、そのまんまで良いんだよ」
器用にフォークでモッツァレラチーズをハムで包みながら、寂しげに呟かれた。
僕はどこかで違和感を覚えながらも、その時は特に気にも留めずに、目の前の夜景を見ているようで見ていないような視線で、「そうかもなぁ」と返した。
「そうかもなあって何!?」みたいな反応をされたけれど、あの言葉に対して、なんとなく納得できない違和感があった。
彼女はチーズとハムを口に運ぶと、「うん、美味しい」と言って満足げにこちらを見てきた。
その半年後に、僕たちは別れた。
「チェーホフの銃」という業界用語がある。
物語の中に銃が出てきたら、それはどこかで発射されなくてはいけない。
いわゆる伏線回収のルールだ。小説や映画に持ち込まれた要素は全て意味を持たせなければならない。
例えば、飲み屋のシーンで主人公が座っている席の机に、見知らぬ女性の体が突然ぶつかり、「ごめんなさい!!」と謝られ、倒れたコップの水を拭き、そのまま急いで立ち去るシーンがあったら、大抵その女性はその後に重要なキャラクターとして登場する。
普通に考えたら「いらないだろそのシーン」とか「意味深な言葉」や「違和感のある描写」がある場合、それには絶対に意味がある。
さて、確かに彼女は本当に心配していた側面もあるとは思う。
でも、僕には「そのまんまで良いんだよ」は
ブレーキをかけられてる認識に他ならなかった。
僕が仕事を頑張ると、結果として環境や時間の使い方も変わり、彼女との時間が取れなくなる。そのことに対しての不満を「ありのままで良いのに」「そのまんまで良い」という美辞麗句で表現しているように思えた。
要するに「変化して欲しくない」に聞こえるのだ。
このまま変化されることが、彼女にとって都合の悪いことだから、それをブレーキするために「そのまんまで良いんだよ」と優しい仮面で語りかけていたんじゃないか?
聞いたわけじゃないから真偽はわからない。でもきっと、彼女にとって「都合の良い僕」に留めておくための言葉だったんじゃないかって。
「無理しないように」とか「ちゃんと休みなよ」とかならわかるのだが、「そのまんまで良いんだよ」って、「成長を止めろ」「変化を止めろ」ということとほぼ同義だと思っている。
だからこそ、当時は気にも留めずに聞き流していたわけだ。
あの一瞬の違和感だった彼女の言葉は、彼女が僕に対して静かに向けた、チェーホフの銃だったのかもしれない。
そして、半年後に銃は撃たれた。