大衆ウケより内輪ウケで創作したくなる時代もいいんじゃない?
Z世代が世の中のビジネス色にうんざりしている、なんて言われますが、我々ミレニアル世代より上にも同じような感覚の人だってそりゃいますよね。
『CASSHERN(キャシャーン) | (2004)』や『GOEMON(ゴエモン) | (2009)』などの映画作品で知られる紀里谷和明さんが、新規映像作品をクラウドファンディングを足がかりに手掛けていくということでインタビューが掲載されていました。
これがなかなかどうして"クリエイター"としては突き刺さるものがある内容だったのです。noteを含めSNSでの振る舞い、もっと言えば生き方にも通底するものだなぁ、と。
もちろん、個々人が好きに選んだらいいし、どんな振る舞いでも否定はしないです。どうぞご自由に。でも僕はこのインタビューの最後の250字に共鳴してならないのです。
前半部分では業界の現状について語っていて、特に印象的なのはここです。
日本もそうですが、映画業界自体の売り上げは下がってなくて、上がってはいるんです。ただ、何が起きているのかというと、膨大な予算をかけた有名作品は、すごくヒットしますが、一方で小さいアート作品などが苦しい状況になっています。
(中略)
日本では漫画原作であれば映画化できるが、小さいものは耳にも話にも届かないという現実があります。 芸術がビジネスになってしまい、もうこの業界には関わりたくないと思っていました。
たしかに映画産業はビジネス色が強まっているというか、、、
そもそも「テレビ局・広告代理店・芸能事務所」という既得権益サイクルによって構成された日本の映画産業は、クリエイターにとってどれだけ良い環境なのか、ちょっと評価が難しいですね。
感情論だけで語れば、僕は大嫌いです。あくまでもこの構図が嫌いなだけで、生み出された作品やそれを生み出したクリエイターの方々へのリスペクトは失っていません。そこは悪しからず。
ただ、好き嫌いなどと言っても仕方ないので、この構図をハックしてかかる必要もあったのが業界の内部事情なんだと思います。ある意味では狡猾に強かに。ハックしたりブーストしたり、とあの手この手で"爆発的ヒット"を生んだ作品やクリエイターも存在していますね。
悪いことではないと思います。でもお金が動かないと権力が動かない構図は、極端に大衆ウケを狙ったコンテンツを作るしかなくなって、どこか産業全体が定式化されてしまう部分があるんだと思うんですよね。
かなり私見が挟まってしまいましたが、こんな具合で紀里谷さんが動き出した方向性がクラウドファンディングだったのだそうです。
そこで、私が考え抜いた結論は、製作委員会も何も通さない方法です。私がすごく毛嫌いをしていたビジネスと繋げてそこからやっていきます。今すでに動き始めていますが、いろんな企業の社長さんたちとお会いして、思っていることを伝えました。
"毛嫌いをしていたビジネス"にクラウドファンディングが含まれているような書き方(そう発言したとも限らない)になっているのが気になりますが、紀里谷さんのやりたいことを実現するには極めてフィットした方法だったと思います、個人的には。
そもそもクラウドファンディングってビジネスとしての側面はあまり強くなくて、"思想やビジョン"と"共鳴する人"を繋げるプラットフォームだと思うんですよね。
この新しい形の創作活動は、大衆ウケも万人ウケもさほど気にしなくて済むようになるところが、非常にニューノーマルだと感じました。
いや、クラウドファンディングで映像作品を創ることが新しいって言うんじゃありません。そんなんマックスむらいさんがずいぶん前にやってましたよね。
このインタビューは一人称視点が"アーティスト"なのが注意ポイントです。
比較概念として"エンターテイナー"を挙げています。
※あくまでも比較です。対立概念ではない。否定もしていない。
みんなが“今”楽しめるもの、“今”理解できるものを、提供しましょう。その作品が10年後、20年後どうなっているかは知りません。“今”楽しければ良いでしょう? というような作品を作るのがエンターテイナー。僕はそれを否定しません。それは必要だと思いますし、お客さん側からしても1800円払うのだから、楽しませろよというのが大半です。
しかし、以前は、1800円払って自分が知らない世界を知りたいというお客さんが沢山いた。それはアートの世界でなくても、ありとあらゆるビジネスがそうだと思います。
この辺も共感ポイントです。
インスタントな情報を消費して一過性のエンタメを楽しむだけではなく、もっと長く自分の人生を満たしてくれるものを楽しんだっていいと思うんですよね。
それは大衆ウケとは遠いところにあるかもしれなくて、ある種の内輪ウケかもしれない。もちろん一定はビジネス的な合理性が必要だろうから、規模によってはできないこともあるかもしれない。
だけど、やりたいことのために既得権益に阿ってへつらって、というのと、どちらがマシなんでしょう。
どちらが悪いということはありませんが、内輪ウケで創り出す世界も素敵だと思うんですよね。
そんなこんなで、このインタビュー記事の最後の250文字に強く頷くのでした。ぜひ読んでみてね。
ここから完全に私見ですが、noteやSNSの世界も同じだと感じています。
たくさんの方に刺さって、たくさんスキがついて、広まって。それも素敵ですよね。心のくすぐったいところが満たされる想いがあるかもしれません。
でも、たとえ内輪にしか刺さらなかったとしても、誰か1人にでもしっかり届けることができたら、それだって負けないくらい素敵だと思うんですよね。
この文章だって、みんなに刺さるようになんて書いてません。そもそもそんなこと僕は求めてません。
「人は文章を読まないから、こういう工夫をしよう」
「誰でも理解できる言葉で書くべきだ」
などなど、色々な言説があります。UXライティングのような"人を動かす"ことに一定の重要性を置いた技術としては、そうだと思います。
SEOライティングのような、マス向けの文章に重要度を置いた(かなり甘めに表現してます)技術の場合も、そうかもしれません。
でも「読まれるための工夫」と「読みやすくするための工夫」は違います。
この文章って多くの人に読まれる必要があるのか?と思うんですよね。
抽象的なことを書いても多くの人は読み流すかもしれないけど、その人達の人生と僕の人生が重なる意味ってあるのか?と、そもそもの所から思うんですよね。
自分が興味ない人達に対してまで「読まれるための工夫」をする必要ないでしょw
長い文章は読まれない。小難しい文章も読まれない。
全然いいの。僕はそっちの世界で生きてないんだもの。
まぁそもそも、広まるような文章書けたことないんだけどね!
なんて。
ということで、
お付き合いいただき ありがとうございました。
お相手はわたくし
納木 まもる でした。
次回も楽しんでもらえますように。
<編集後記>
なんていうかね、新しい時代が来たなぁと思ってワクワクするんですよね。
リアルな世界での繋がりが変われば、一部のしがらみはきっと解けていくと思うんですよね。
マーケティング的手法も賢明な消費者が気付く時代になったし、時代の変化に適応できる人はどんどん変化していく。
もちろん大衆はいつの世も大衆なので、まだまだ古い経済圏も活況だと思います。でもそんな大きな塊から、少しずつ小さな塊が千切れてバラけていく。みたいな時代だと。
もちろん、新時代のしがらみも生まれますし、別の部分に新しい苦しみが待っているのも必然です。
それでも、なんだか息苦しいこの社会に変化が生まれること、たとえわずかだったとしても、やたらと眩しく感じてしまうのです。
てかさ、元記事のForbesですけど、このインタビュー記事でMakuakeのリンク貼ってないって、特定企業のリンク貼れないとか、そういうのがあるんですかね?アドセンス広告はやたらと配置してるのになぁ、こういうところがビジネスメディアが嫌われていく根底にあると思ったりする夏の夜でした。
読んでいただいてありがとうございます。貴重な時間をいただいていることは自覚しつつ、窮屈にならない程度にやっていきます。