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読むセラピー番外編 マッチ売りの少女
アンデルセンの「マッチ売りの少女」はあまりに有名です。ここであらすじを再現する必要はないでしょう。
私はこの作品を、たぶん3歳のころに読みました。以来よほど私の心に響いたらしく、童話集はボロボロになっていました。
いくつかの解釈ができるお話だと思います。
昔の世の中は子どもにこんなに厳しかった。
格差の拡大と貧困問題が生々しく北欧をえぐっていた。
けなげな少女が天国に召される悲しいお話。でもキリスト教が救いになり得る。
しかし私が記憶している限り、私の心に残ったのは
「そこでマッチをするな!」
と叫び出したくなる恐怖だった気がします。
雪の降る寒空のもとで、母親からあてがわれた足に合わないクツは失ったという状況で、マッチが売れぬなら帰ってくるなと父親から厳命されているとはいえ、まるでアルコールの幻影にも似た「優しいおばあちゃん」の夢を、マッチの火の中にまどろんでいたらまずいだろうと、不安にさせられたわけです。
救いがたいことにその不安はあっという間に的中し、少女は帰らぬ人となります。私には非常に教訓を残した物語でした。
ぼくはぜったいこんなふうには死にたくない!
少なくともまだ4歳にはなっていなかったはずです。この決意を固くしたのは青森県のむつ市の家だったはずだからです。私は4歳の時に埼玉県に越してきたのです。これにはちょっとした意味があります。むつの外には雪が降りしきるのです。埼玉ではめったに雪は降りません。
想像力というものがときにもてはやされます。イマジネーションがあったからこそ、人類は文明を築くことができたいわれます。
しかしイマジネーションとは幻想です。幻想のいいところは、よく精神分析で言う「万能的」に出し入れ可能なところです。現実の状況がどうであろうと、時空を超えて好きな人を、好きなときに、好きなものと、好きなだけ自在に扱えます。
マッチ売りの少女が、現実の寒空と過酷な家族のもとで育つ状況などおかまいなく、時空を超えた優しいおばあちゃんと温かいごちそうを好きなだけ堪能できたようにです。
幻想の悪いところも同じです。現実を無視して万能的に出し入れできるイリュージョンに浸れても、イリュージョンが実在することはないのです。永遠に幻想の世界に浸りたいと思えば「この世」から「あの世」へと移るほかありません。
万能的に出し入れできるのはそれが現実ではないからなのです。
したがって幻想が幸せそうであればあるほど危険なものになります。
遭難した冬の山で「ヤレヤレと帰宅してごちそうにありついた夢」を見るのが危険なのと同じことです。
彼女が愛されない外的現実から逃げつづけるのは、現実が冷たいからだけではなく、内的現実があまりに甘美であるからだ。
内的現実を現実そのものとした彼女は、冷たい外的現実を否定し、結局そこには戻らなかった。彼女の夢は外的に実現することはないから。
イマジネーションは万能なうえに「あまりに甘美」なところが恐ろしいのです。
私は在宅で仕事をしています。50歳に手が届きそうになった最近ようやく、難しいメールの返事や原稿を前にして
甘美な官能動画
を自在に出し入れして「あの世」に旅立ちそうになることを防げるようになってきました。
面倒くさい三角関数の問題を解けないからといってエッチなマンガに手を出した中学生のころから、40歳代半ばになるまでこの点で進歩がまったくみられなかったわけです。それが私です。
じつに30年の歳月です。四半世紀以上です。長すぎる。この国の女性もたいへんだとは思いますが、男を生きるというのもけっこう因果なものなのです。
つまりエッチなマンガだろうと動画だろうと、それより品がいいにせよ「マッチのなかの優しいおばあちゃん」であろうと、自分の都合にあわせて出し入れできる「現実ならぬ存在」に、現実の苦しみや寂しさ、やりきれなさを埋めてもらうという危機対処法に大きな問題があると言わざるを得ません。
なぜなら「埋めてくれるわけがないから」です。そして私たちは「幻想の時間」が終了するとともに、寒空の過酷な現実にほっぽり出されるのです。泣くしかないでしょう。
私が、こんなしょうもないカラクリのなかで生きているという種明かしをえたのは、精神分析の本からでした。理解してみればじつに他愛のない、大きな肩透かしを食らったとしか言いようがありません。
フロイトはちゃんと教えてくれていました。