ぼんやりとした景色 24/07/30
ぼんやりと先の事を考えていたら、あっという間に今日も夕方になった。夏が、淡々と進んでゆく。今日も屋内までジリジリとした暑さが伝わってくる程の気温であったが、例によって外へ一歩も出ていないので、その暑さについては何処か他人事のような感覚を持っている。そんな中でふと、去年の夏はどのように過ごしていたのだろうかと気になって、去年の夏の日記を読み返してみたりした。すると、今の私には到底書けないような文章が、そこにはあった。そこにあったのは、今よりはもう少し、感謝と喜びを知っていた私であった。私は、この一年でまた何かを失っているという事に気が付いた。何かが徹底され、何かが整理された結果、目を輝かせながら何かを語るという事が、出来なくなっているのである。思い返せば、去年の夏は騒がしかった。今年は、どうだろう。騒がしい夏が万事に於いて素晴らしいとは思わないが、この、じっと何かを直視する事がやめられなくなった、静かな夏というものには、何処か汚れを感じるのである。
蝉の声を聞いて激昂していた己が、懐かしい。蝉の声を聞いて、静けさ、とはなんだ。夏は、忌々しい季節であり、故に、助けを求め、助けられて有り難さを感じていた、という私が過去には居たが、不安や苛立ちに対して、腰と目を据えて対峙するという、謂わば一つの技を身に着けた私は、最早、緊張間の塊であり、何をするにもお伺いを立てなくては動けない組織人のようであり、自然というものが徐々に失われていっている、大人である。大人になるという事はしばしば褒められるが、本当に褒められるような事なのであろうか。私は寧ろ、不気味さを感じる。大人とは、不可逆的な損傷を受けた、傷付いた、思い出と歴史の被害者なのであろうと思う。はっきり言おう。被害者というものは、醜い。
一日が、習慣で過ぎる。大して面白くもないゲームで遊ぶ時間、美味しいが何処か飽きのあるカップ麺を食べる時間、何故か命懸けの水風呂での読書の時間、全てが淡々過ぎてゆく。そして、どうせプロ野球を観る。そうして、根拠の無い安心を得て、何故か疲れた心身を休めるべく、早々に寝る。また明日も、蝉の声を聞いて目が覚めるのであろう。特に不満も無い。あるのはただ、ぼんやりと見える滅びの景色から来る、ぼんやりとした不安だけである。そのぼんやりとした滅びの景色が、徐々に現実を侵食してゆくような気がしてならない。また、この特に不満の無い現在が、もしかすると幻なのではないかとも思う。荒波は、私には大き過ぎた。これを越えようとするには、見えている景色が、ぼんやりとした滅びの景色ではなく、穏やかで鮮やかな高原の景色でなくてはならなかったのである。