『他力に頼る』とはどう云う状態か〜仏教初学者による浄土真宗考察〜
浄土教、私の感覚ではとりわけ浄土真宗に於いては、もっぱら『他力』に頼る事による成仏を説く傾向にあるように思うが、そもそも、我々凡夫一般が他力に頼ろうとする時に、その各人は一体どんな心理状況にあるのかを、ここで考察したい。
私の考えを先に述べると、「他力に頼ろう」とする状態にある時点で、最早そこには自力があるのではないか、と私は考えるのである。
それは何故か。「他力に頼ろう」とすると云う事は、大体の場合同時に「他力に頼りたい」と願う心理が働いている訳であるが、「願うから成仏できる」とするならば、そこには「願う」と云う自力が認められる。つまり、その状態にある時点で、自力がそこにあると考えるのである。また例えば何かの壁の前に立った場合に、他力を宛にして一般的な努力を放棄し、比較的楽な進路を取ろうとした場合にも「他力を宛にして一般的な努力を放棄し、比較的楽な進路を取る」と云う自力がそこに認められる。
この事から、我々凡夫にとって自力の放棄とは実際に可能な事なのかどうか、昨今私は疑わしく思っているのである。またこれは、老荘思想に於ける『無為』についての考察にも通ずる指摘であると自負している。
だが、こんな初学者の理屈によって真宗教団の教えが歪むはずが無くて、その事から私は、より一層真宗教義の理解に励もうと思うのである。オススメの本等があればコメント欄で是非教えて欲しい。
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