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近江から東京まで歩く2日目 水口〜鈴鹿越〜亀山 24/10/03

必ず降ると再三言われていた雨は、されど早朝は降らないという予報も出ており、なので今日はなるべく早朝に歩いておこうと思って、朝5時には水口の宿(やど)を出た。少し前までは5時と言うともう明るかったのであるが、今朝の水口の街は真っ暗であった。それでも、30分程歩くと空は明るくなった。予報通りまだ雨は降らなかった。少しでも濡れずに歩きたかったので、父親と二人、一心不乱に歩き続けた。当初思っていたよりも順調に、スタスタと歩いた結果、9時頃には土山を越えていた。まだ9時であるのに、もうしっかり歩いた気になっていた。因みに、余談であるが、土山の街はどうも路線バスが盛んな地域なようで、国道一号線には何本もバスが通っていた。私はてっきり草津線の利用者が多いのだろうと考えていたが、この様子ではその貴生川駅行の路線バスの方が流行っていそうである。事実、土山の役場前の大きなバス乗り場には行列が出来ていた。

とは言え、今日の行程はもしかするとこの旅行で一番人口密度の低い地域を進むのではないかと、そういう気もした。実際、そもそも水口以降は民家はあれど商業施設は殆ど無かったし、土山を過ぎるといよいよ峠道に差し掛かったので、人が住んでいる気配すら無かった。また、峠道にはまともな休憩所が無い事は下調べの結果判明していたので、もう後戻りは出来ないという、冒険に特有の緊張感があった。更に、土山を過ぎた辺りからはいよいよ雨が降ってきたし、その雨もすぐに強烈なものになった。当然カッパや傘は持っていたので何とか進める状態ではあったし、そもそも進まねば埒が明かないので、行軍を強行した。大型のトラックが何台も走る大雨の国道一号線は物凄いうるささで、まともに音が聞こえなかったし、当然父親との会話も無理である。確かに二人で歩いてはいたが、次第に妙な孤独が襲ってきた。

正直な所、天下の鈴鹿峠と言えども所詮は逢坂山越え程度なものだろうと、峠に差し掛かるまでは楽観していたのである。ところが大雨も災いして、前述の通りまず聴覚がまともに機能しなくなったし、そもそも実際に経験してみると逢坂山の峠と比べて遥かに長く険しいのが鈴鹿峠であると言えて、歩き終えて今こうして日記を書きながらその時の事を思い出すと、大雨の中で同じような光景が何度も繰り返される、単調な、何時まで経っても坂道の終わらない、試練という二文字を思い浮かべざるを得ない、そんな峠道であった。そびえ立つ山は一度も笑顔を見せなかった。ただただ厳しさだけがあった。頂上を越えると旧東海道が一号線から分岐していたので、あまりの一号線のうるささに耐え兼ねてその小道に入った。すると、江戸時代初期に大洪水で崩壊したと言われる旧坂下宿の跡らしき場所があった。この険しさならばそんな崩壊があっても不思議ではないと思った。けれども、私もその頃に集中力を欠いており、旧坂下宿の跡として残っていると言われる石垣等を探そうという気にはならなかった。旧東海道の小道には大雨の影響か沢蟹が何匹も歩いているという有様であった。

これが幸いなのか不幸なのかは分別しかねるが、結局峠道を歩いていた頃が一番の大雨であった。関の宿に近付くにつれて雨は弱まっていった。けれども、亀山の宿に着くまで雨が止むという事はなかった。雨が弱まったとて、もう既に靴が水分で重くなっていたので、一歩一歩の憂鬱さは改善しなかった。14時半頃になって、逃げ込むようにして亀山のホテルへ入った。幸いな事にこの宿には大浴場があったので、有無を言わず早速湯船に浸かり、妙な冷え方をした身体を温めた。勿論ホテルの中でのコインランドリーで洗濯もした。興味があったので洗濯機の中をしばらく覗いていたが、洗濯槽の水はすぐに濁ってしまった。なお、今日は基本的にそのような苦しい行程になったのであるが、唯一嬉しかった事を語るのであれば、関の街にあったとあるうなぎ屋でうな重を食べたという事であろう。父親が唐突に「関でうなぎを食べよう」と言い出した。何故急にそのような提案があったのかはわからなかったし、そもそもそのような贅沢をしても良いのだろうかと多少葛藤があったが、このような日は美味しいうなぎを食べたいという思いが強く、その提案を有り難く受けたのであった。うなぎはやはり、美味しい。関の街とうなぎ関係は、知らない。

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