肩書きはあってないようなもの
ふと昔の話を書きたくなりました。
肩書きはあってないようなものだと実感したのは小学生ぐらいの頃です。
当時の私は何をするにも受け身で、自発的な行動をほとんどしない消極的な人間でした。
色々とこねくり回して考えるのが得意であることは今も昔も変わりませんが、今と過去の自分との違いと言えば、自発的であるかないか、といった部分がいちばん大きいと思います。
受け身であった自分は、遊びに行くにも何にしても誰かからのアクションを待っているような人間でした。
ある時、とある悩みをポロッと親にこぼしました。
すると、普段は絶対にそんなことをしない親が「なんだって?!」と張り切って(?)なぜかその相談をスクールカウンセラーさんの所に持ち込んで相談してくる的な流れになりました。
いやいやいや。そんなことしなくていいから。
これは私の問題だから、そういうことをして問題を大きくしなくていいから。ポロッと話をした私が悪かった、もう忘れてくれ。と。
そう言っていくら消極的な人間であろうとこの時ばかりは必死に親を止めましたが、この状態になった親を止めるのは天から諭吉さんの日本銀行券が降ってくるぐらい不可能なことなので、
私の悩み事について親がスクールカウンセラーさんに相談する流れになりました。
めちゃくちゃどうでもいい相談内容なのに、そんなことでカウンセラーさん頼っちゃっていいのかなぁ、と本当に心配でした。
そして、親がスクールカウンセラーさんの相談から帰ってきました、、
結論から言うと、親がスクールカウンセラーさんにめちゃくちゃ怒っていました。はい。
ほーら言わんこっちゃない。
「そんなこと」でスクールカウンセラーさんに相談するからこうなるんだよ…!!
と言った所で親の怒りがおさまることはなく。
何故親は怒っていたのか。
それは、親がスクールカウンセラーさんに怒られたらしいのです。「貴方が悪い」「それはその娘さんが悪い」というように。
カウンセラーさんの仕事は目の前のクライアントさんのお話を聴くこと。
メンタルクリニックとかカウンセリングルームのサイトでも、「どんなに些細なことでも構いません」「こんなこと、と思わずに相談に来てください」とデカデカと書いてあるから、こういった「些細なこと」に大きな悩みの根っこが繋がっていることを想定しての事だと思いますが、私もカウンセリングの過程において最初の悩みは実は本当に「些細なこと」だと、今考えれば思います。
それがどんな悩みでも、と考えるとカウンセラーさんのお仕事って本当に大変だなぁ、なんて思うのですが、私のどうでもいい悩みについて相談したところで、こういった反応が「普通の人」から返ってくることはもう分かっていました。
なので、反応は完全に私の想定通りであったのと、いくらなんでも親、カウンセラーさんに期待し過ぎでは。。と当時は思いました。当時は。
母いわく、そういった資格を持っていて学校に常駐(?)している専門のカウンセラーさんより、教育研究所という民間の施設にいらっしゃる何の資格も持っていない職員さんの方がお話の聞き方がとても心地よかったとのこと。(ちなみに私は小学2年生の時に発達障害のグレーゾーンの診断がそこで出ている)
私が敬愛する愛美さんのツイット。
そういったものを経験していたので、逆に「スクールカウンセラー」という肩書きは何なんだ、民間の職員さんの方がよっぽど悩み事を安心して話せたぞ、となったらしい。
いい歳をした大人が「そんなこと」でカウンセリングを利用するのはもしかしたら怒られるのか。。今でこそ、カウンセリングって「そんなこと」をお金を払って話に行くような所だと思う。私は。
カウンセリングってもともと「そんなこと」みたいな自分以外の他の人間にとってはとてもくだらないような鬱屈した感情だったり、ドロドロしたものだったり、そういったものから悩みの根っこを探っていくものだと今なら思うから、もしかしたらそのカウンセラーさんは、カウンセラーさんとしての役割を果たしていないのかもしれない。
たしかに、カウンセラーさんじゃない「普通の人」なら、「私にそんなことを相談するんじゃない、そんなことを私に相談したところでどうなるっていうの?」となると思う。
友人やらそういった身近な人に医師やカウンセラー等の役割を期待するのは関係性として不健全であるのではないか、と私は考えている。
お門違いと言うやつ、餅は餅屋だ。
ただ、親は確かにカウンセリングに行った、そしてスクールカウンセラーさんに怒られて帰ってきた。話を聞いてもらうでもなく。
うーん。
メンクリに行った時に怒られて帰ってきて、結局メンクリに行ったはずがメンタルの状況が悪化した、なんて話はよく聞くし、個人的には資格とか職業とか肩書きとかって関係ないんじゃないかな、なんて、小学生の時のその経験からぼんやりと考えたことを覚えている。
自分と相性が良いかも分からないカウンセラーさんとの初診料のカウンセリング60分に1万円払うより、5000円払って何回かリピートしている占い師さんに30分間みっちり深刻な悩み事を聞いてもらい、たった30分で気持ちが軽くなって前向きになった経験すらある。
これは一部のカウンセラーさんをdisりたい訳ではなく、これからの時代はどんどん様々な職能においてシビアな世界になっていくのではないか?
「本物」と呼ばれる本質的に「良い」ものしか残らなくなる厳しい世界になるのではないか?
肩書きというものは、あってないような時代へ変化しつつあるのではないか?
という懸念について書きたかっただけ。
正直私はプロのカウンセラーではないので、カウンセリングの善し悪しについては分からない。
ただ、「人に話を聞いてもらうことで心が軽くなる」「悩み事が勝手に自分の中で解決していく」を経験したのは、過去の経験だと占い師さんといったご職業の方と、経営者として会社を運営している方々とのお話が心を軽くした。
だから、何かあった時は年に数回リピートしている占い師さんにお金を払って話を聞いてもらうことにしている。
もちろん長ったらしい話はしない。冗長的な話は占い師さんを疲弊させてしまう。予め短く端的に話せるようにカンペを用意する。
カンペを書くために、「自分は一体何について悩んでいて、何を相談したいのか」を明確にするためにひたすら考えて、自分の内面を掘り下げる。
この時点でかなり自分の悩み事の輪郭が明確になってきて、6割ぐらいは大体自分の中で解決してしまう。残りの4割は自分ひとりでは難しいので、話を聞いてもらう。そのように私は占いというツールを利用している。
様々な経営者の方とお会いしてお話した事があるが、例として某コンサルファーム出身のコンサルの方を挙げる。
その方は起業して自ら会社を経営しているが、そのような方にポロッと「今これマジでやべーなって思うんすよね」(今思えばなんてラフに話してしまったんだ)ってまんまこんな感じの発言をした時に、ナチュラルに会話の最中にコーチングされたこともある。相談したつもりではなかったのに、結果的に相談に乗ってもらった形になった。
その方の職業病なのかもしれないが、会話の中でナチュラルにコーチングされたことで自分自身のほんとうの気持ちに気づく、というアハ体験をした。
「そうなんだね、辛かったんだね」と言われた時に初めて、涙が出てきた。就活中の話である。人前なのに普通に泣いていた。
涙が出てきて初めて、「そうか、私は辛かったんだ」と気づいた。(これを「承認」と呼ぶらしいと教えてもらった)
占い師さんと経営者の方、両者に共通していると感じたことは、「人の話を聴く」ことに特化している点である。カウンセリングに不可欠な要素である。
しかし、かなり偉そうな書き方にはなるが、私の感触だと玉石混交であると感じた。
もちろん占い師さんの中にも経営者の方の中にも、傾聴が苦手な方はいらっしゃると感じた。
※個人的な見解。
「聞く」ではなくて、「聴く」なのだ。
つまり、「傾聴」。
これが上手な方とのお話が楽しいのは、自分の話を「聴いてもらえる」からであろう。
人はみんな自分の話を聴いてもらいたい生き物だ。
そういった方とのお話はほんとうに楽しいので、必然的に「今日は楽しかったです、ありがとうございました!」みたいな音符マークでも文末に付きそうな文章を送ってしまう。
占星術の世界では、2020年からは風の時代、水瓶座の時代、アクエリアスの時代などと言われているが、その要素の片鱗を少しづつ感じている。
これは「肩書き」などではなく、「本質的なもの」に価値を見出す、「目に見えるものよりも、目に見えないもの」に重点が置かれる、といった時代である。
カウンセラーさんとのこの経験(?)から、私は幼少期からそういった片鱗を感じ取っていた。
私は人の話を「聴く」時に、実際の言葉の意味を捉えようとして話を聴いていないかもしれない。
もっとその奥の、相手の発言の意図についてだったり、目の前の相手の思考過程に興味があるのでそういったことについて考えていたりする。
そのため、出てくる質問は必然的にその話題について深掘りする形になっていく。(親曰くこういった形態の私とのコミュニケーションは変に頭を使う作業が多くて疲れるらしいが、悩み事を話すだけでどんどん勝手に深掘りしてくれるから気持ちが整理される、と言ってくれることもある。まあ、私との対話は変に頭を使うから疲れる、と言われることの方が多い。( '−' )・・・)
もちろん話の流れを途切れさせるようなことはしたくないので、流れを読める範囲で読んで対話をするが、人の話を「意味」よりも、「音」として聴いている節がある。だから質問があっちこっちに飛んだりする。
私は傾聴のスキルは全然だと思う。
自分が聴きたいようにしか人の話を聴いていないからである。
そうではなくて、相手が話したいことを促すような傾聴ができるようになれたら資格という肩書きがなくとも、私も優秀なカウンセラー、優秀な上司になれるのかもしれない。。