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【掌編】生きるということ

小説でもどうぞに投稿した作品です。

 母が死んだ。突然のことだった。
 病気も何もしたことがない、健康な母だった。そんな母の命を奪ったのは、自動車事故だ。青信号で横断歩道を渡っていた時に、信号無視の車に横から突っ込まれた。医者が言うには即死だったらしい。
 新聞には小さく記事が載ったが、すぐに忘れ去られてしまうよくある事故。そんな呆気ないもので、母は命を奪われた。
 母の亡骸を前にして、父も自分も嘆き悲しんだ。でも、私に果たして嘆くような権利はあるのだろうか。年齢を重ねても思春期のような反抗期を繰り返して、母には迷惑ばかりをかけてきた。私は母から色々なものをもらってきたのに、果たして母に何を返すことができたというのだろう。後悔先に立たず。今更、何もしてあげることができない。
 私にできることといったら、家事をすることくらいだ。母がやっていたようにはいかなくても、自分たちは生活をしていかなければならない。それに母にはできなかった親孝行を、せめて父にはしてやりたい。
 しかし、延々と反抗期をやっていた私は、母の家事を何も知らない。こんな親不孝な娘に、母は何も言わずになんでもやってくれていた。三度の食事を作るのも、家の掃除も洗濯も。今になって母の愛情の深さを知る。
 それでも掃除や洗濯はなんとかなった。唯一の問題は食事である。いや、正確にいえば別に食べられるものを作ることはできる。しかし母の味を再現することが全くできない。母の隣で料理をしたことがないから、工程も何も知らないのだ。
 カレーや肉じゃが、味噌汁、シチューを食べるたびに、二度と味わえない母の料理を思い出す。そして父と二人で涙を流した。
「ごめんください」
 そんなある日、見知らぬ女性が家を訪ねてきた。どこか母に似た女性だった。聞けば母の妹だという。父も私も母の親族に一度も会ったことがなかった。叔母にあたる女性は寂しげに目を伏せた。その表情も、反抗期の私を見つめる母の表情によく似ていた。
「私たちは、両親と折り合いが悪かったから」
 いわゆる毒親だったらしい両親とは縁を切っていたらしいが、姉妹はずっと手紙をやりとりしていたとのことだった。毎朝手紙と新聞を取りに行くのは母だったから、叔母から手紙が来ていたことなど私たちは知らなかった。
 ずっと一緒にいたのに、何も母のことを知らない。父は涙をひとつこぼした。
「今日来させていただいたのは、姉さんからの手紙が来なくなったからなの。まさか、その」
 叔母はちらりと仏壇を見た。写真の中の母は笑っているが、現実にはどこにもいない。
「そういうことだったのね」
 叔母は仏壇に手を合わせた後、父と何かを話していた。遺産の話だろうかと警戒したが、どうやら思い出話らしい。そっとしておこうと思って私は夕飯の準備をするために席を立った。
「怜ちゃん、手伝うわ」
 味噌汁を作るために湯に顆粒だしを入れようとしていると、叔母から声を掛けられた。目を丸くする私に、叔母は「姉さんから、ずっとあなたのことを聞いていたから」と笑みを浮かべた。
 私は何も知らないのに叔母が私に親しみを持っているのはなにやらむずがゆい気もするが、頼れる相手が一人でも増えるというのは悪くない。ありがたく申し出を受けることにした。
「いきなりお邪魔したのに夕飯まで、ごめんなさいね。でも、もう少しあなたのお父さんと、姉さんの思い出を話したいから。もちろんあなたとも」
 そう言うと、叔母は台所をキョロキョロと見回した。
「どうしました?」
「お味噌汁でしょう? 姉さんは鰹節と煮干しの両方で出汁を取っていたから」
 ……なるほど。だからどれだけ作っても母の味にならなかったのか。他にも細々としたことが違うのかもしれない。じっと叔母を見つめると、叔母は眉尻を下げた。
「両親と仲が悪くても、味は受け継がれるのね。他にも私が役に立つことがあればなんでも言ってね」
「じゃ、じゃあ。母さんのカレーが食べたいの。肉じゃがも。なにも母さんの味にならなくて」
 言いながら涙があふれてくる。他人の前で泣いたのは初めてかもしれない。叔母は優しく抱きしめてくれた。その体温も、母の物によく似ていた。けれど決して同じではない。
 叔母が教えてくれた料理は確かに母の物によく似ていた。しかしどこか違うのは、これまでの人生が違ったからだろう。私が作る味もこれとはきっと変わっていくのだ。
 生きていくとはきっとそういうことなのだろう。

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