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【掌編】善意の第三者

小説でもどうぞW【善意】落選作品の供養。

「今度の月曜、出張だから」
「また? 最近多いのね」
「ちょっと新しいプロジェクトがあってね。うまく行ったらもっと忙しくなると思う」
「あらあら。体には気を付けてね」
「ああ。いつもありがとう」
 とってつけたように礼を口にすると紗月は薄く笑みを浮かべた。少し困ったような彼女の笑い方が好きだったはずなのに、今はその笑みが惨めっぽく見えてどうにもイライラする。ただ胸の内は誰にも見せない。まあ鈍い紗月が俺の不貞行為に気づくことなんて万に一つもありはしないだろうが。
 何も本気で紗月と別れたいわけではない。彼女――藍川実華にも家庭がある。大手商社勤めの旦那と有名私立小学校に通う子供が一人だったか。
 そう、俺も実華も家庭に不満なんてない。自分で食い扶持を稼いできてくれる家政婦として、紗月は上等なもんだ。家のことは各々配偶者に任せて、俺たちは少し外で遊んでいるだけだ。
「でもよかった。来週は私も忙しいの」
「なにかあったのか」
「家庭に問題がある子がいて……」
「学校外のことなんて放っておけよ」
「分かってるんだけど、ちょっと心配で。最近随分と落ち込んでたから」
「……まあ無理すんなよ」
 己の夫の不倫にも気づかない女が児童の機微に気づけるのか。笑いそうになるのを押し殺し励ましの言葉を口にする。紗月ははにかむばかりで何も言わない。曖昧な態度はいつものことだが、今日は無性にイライラした。
 これ以上話すこともないとスマホに目を向けると画面には実華からのメッセージが表示されていた。
『奥さん、大丈夫そ?』
『平気。そっちは?』
『うちは旦那が全部やってくれるから!』
 実華は文面でも会話でも知性がかなり低い。確か子供の名前もキラキラネームなはずだ。こんな女に手玉に取られている旦那も愚かだと嘲笑う。すると突然紗月のスマホが鳴った。
「こんな夜中になんだよ」
「学年主任からだ。ちょっとごめんね」
 そう言って紗月は電話に出ると血相を変えて外出の準備をし始めた。
「ちょ、どこ行くんだ」
「児童が警察に保護されたの。ごめんなんだけど、車出してくれない?」
「今から? 俺、出張準備あるんだけど。それにお前が行く必要ある?」
「帰ってきてから私がやるから。ね、お願い」
 苛立ちを覚えながらも先ほど話題に上った子供のことを思い出してつい口にする。
「もしかして、さっき言ってた?」
「そう。親にも連絡はしたみたいだけど、一応担任もって……」
 説明されても納得は行かないが、あまりごねて紗月に変に怪しまれるのも嫌だ。たまにはいい夫キャンペーンも必要だろう。
「どこまで行くの」
「二個先の駅の近くの交番までお願い」
「遠いな。まあいいけど、ナビは頼むぞ」
「もちろん」
 紗月はスマホでマップアプリを立ち上げて車のディスプレイに接続した。そこでふと気が付く。実華からのメッセージがあれから一通も届いていない。何かあったのだろうか。
「涼介?」
「あ、いや。とっとと行こう」
 違和感を胸に車を出発させる。目的地までの道中、紗月は道案内をするほかは押し黙っていた。紗月に付き合わされているのだから少しくらい俺の機嫌を取れよだなんて腹を立てつつアクセルを踏む。しかしやがて沈黙に耐えられず、俺から口を開いた。
「その交番、その子の家から近いの」
「そう。電車に乗るお金がなかったみたい」
「馬鹿だな。なんでその頭で家出なんて」
「母親がネグレクト気味で。よく調べたら不倫までしてるみたいなの。それで家が嫌だって相談を受けてたんだけど……」
 よその家庭事情には興味なんてないが、不倫の二文字に心臓が変に脈打つ。なんとか平静を装いつつ適当な相槌を打った。そして話題を反らそうと「あれじゃないか。交番」だなんて大きな声を上げる。
「あ、よかった。ご両親も来てるみたい」
「なら俺たちが来る必要も……なかっ……」
 見覚えのある姿に言葉を失う。交番前に立っているのは実華だ。なぜここに。
「藍川くん、ご両親そろっているのね。……本当にちょうど良かった」
 聞き覚えのある名字に息が止まる。紗月の口調は初めて聞く冷たさで。勝手にハンドルを握る手がカタカタと震えた。
「あの子は善意の第三者。でも、私はどうかしらね」

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